支配基盤の確立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/11/25 13:24 UTC 版)
「サアーダト・アリー・ハーン」の記事における「支配基盤の確立」の解説
とはいえ、サアーダト・アリー・ハーンが太守位に就任した際、アワドの各地で帝国の権威に反発するザミーンダールが台頭しつつあった。彼らは地租の納入を拒んだばかりか、私兵を擁して砦を築いており、事実上無法状態にあった。 そのため、サアーダト・アリー・ハーンはアワドの統一を進め、1728年にはジャウンプル、ヴァーラーナシー、ガーズィープル、チュナールを、これらの地のジャーギールダールであったムルタザー・ハーンから奪った。 このように、サアーダト・アリー・ハーンは反抗的なザミーンダールと何年にもわたる戦いを行い、大ザミーンダールらに制裁を加えることに成功した。これらの戦いにより、自身の統治領域における財政的な基礎を底上げすることが出来た。 打ち負かされたザミーンダールの多くは恭順の意を示し、定期的な地租を納めることを認めたならば、領地を保証されその地位を認められた。また、彼は時に懐柔策を取ることもあり、多くの領主やザミーンダールを臣従させた。
※この「支配基盤の確立」の解説は、「サアーダト・アリー・ハーン」の解説の一部です。
「支配基盤の確立」を含む「サアーダト・アリー・ハーン」の記事については、「サアーダト・アリー・ハーン」の概要を参照ください。
支配基盤の確立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 13:20 UTC 版)
「ムハンマド・アリー」の記事における「支配基盤の確立」の解説
エジプト総督に就任したムハンマド・アリーであったが、その支配地域はカイロ周辺とナイル川デルタの一部に限られ、上エジプトやナイル川デルタ西部はムハンマド・アリーに敵対するマムルークや遊牧部族などの支配域であった。また、現状を追認する形でエジプト総督就任を認めたに過ぎないオスマン帝国や、アミアンの和約を破棄しエジプトを対フランス戦の拠点として確保しようとするイギリスは、ムハンマド・アリーの追い落としを画策した。しかし当時の国際状勢はムハンマド・アリーに味方した。まずナポレオン戦争の渦中にあったイギリスにはエジプト情勢に深く介入する余裕がなかった。イギリス軍は1807年3月から4月にかけてエジプト上陸を試みたものの、ムハンマド・アリーによって撃退された(1807年のアレキサンドリア遠征(英語版))。4月にロゼッタ近郊のアル・ハミード(英語版)で行われた戦闘(アル・ハミードの戦い)でイギリス軍が喫した敗北(総兵力4000人中2000人が死傷)は、「第一次アフガン戦争と並んで英国が東洋で喫した最大の敗退の一つ」といわれる。ムハンマド・アリーはイギリス軍を積極的に攻撃することを避け、最終的には協定により撤退させた。その後も交渉と協調がムハンマド・アリーの対英政策の基調をなしていく。オスマン帝国も1807年から1808年にかけてセリム3世とムスタファ4世が相次いで廃位されるなど政情が混乱し、ムハンマド・アリーに対応する余裕はなかった。ムハンマド・アリーはこうしたオスマン帝国やイギリスの苦境に乗じて政治基盤の強化に乗り出し、敵対するマムルークや宗教勢力を排除または懐柔することに成功した。しかしマムルークはムハンマド・アリーに完全に服従したわけではなく、常に反旗を翻す機会をうかがっていた。
※この「支配基盤の確立」の解説は、「ムハンマド・アリー」の解説の一部です。
「支配基盤の確立」を含む「ムハンマド・アリー」の記事については、「ムハンマド・アリー」の概要を参照ください。
- 支配基盤の確立のページへのリンク