支配拡大を目論む
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/13 09:36 UTC 版)
司馬遷の『史記』の記録、紀元前317年、宋を攻め、紀元前314年、燕が宰相の子之と公子職の内乱状態であることを聞きつけ、それに便乗して燕を攻め、燕王噲を討ち取り、子之を追放し、燕の領土を得る。紀元前301年、秦と共に楚を討ち、紀元前299年、楚の将軍の唐眜率いる軍勢を打ち破り、紀元前297年、父宣王の代から宰相を務める一族の孟嘗君に命じて韓・魏とともに秦を破り函谷関で布陣、その間に趙と共に中山国を滅ぼした。 紀元前288年、湣王が東帝を称し、秦の昭襄王が西帝を称した(斉秦互帝)。 その時、蘇代が斉に入り湣王に対し「今帝位を称しても、各国は強大な秦になびくだけなので、帝位を称さずに王位を称して、桀宋(宋の康王が暴君だったために名声が低く、かつての夏の桀になぞらえ桀宋と呼ばれていた)を討てば名声が高まるでしょう」と説いたため、東帝を称すのを止めた。 紀元前286年、宋を滅ぼした。この頃になると、斉最大の支配地を得たため高慢になっていた湣王は、孟嘗君を疎ましくなって殺そうとしたため、紀元前284年、孟嘗君は魏に逃亡し、魏は孟嘗君を宰相として迎えた。
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