支配域の拡大と停滞
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 02:02 UTC 版)
4世紀前半には、ヤマト王権は現在の南東北から北部九州までの地域を勢力下に置いていたようである。ただし、ヤマト王権は独自性を持った様々な部族の連合政権的な物だったらしく、ヤマト王権の支配域と当時の大和民族の分布域をイコールで結ぶことは必ずしも適切ではないかもしれないTemplate:主観。 5世紀には農業生産力が上がり国力が増大し、『日本書紀』や『広開土王碑』には、ヤマトがこの時期に朝鮮半島に兵を送り、一時期は朝鮮半島の一部を領有した(→任那日本府説)と記されている。ただし、5世紀後半から6世紀には既に朝鮮半島での利権は縮小化し、白村江の戦いでヤマト王権が朝鮮半島での利権を失うこととなり、もっぱら日本列島内で徐々に勢力を拡大していくようになる。 日本列島内には、王権の支配に従わない九州南部の隼人(熊襲)、東北[どこ?]の蝦夷などがいたが、隼人の反乱の鎮圧や征夷大将軍坂上田村麻呂の活躍、関東・北陸方面から東北地方への入植により、隼人は8世紀に、蝦夷は12世紀までに完全に大和民族に同化したとされる。これによって、本州・九州・四国の全域を大和民族が支配することとなった。 この間、百済滅亡によって亡命してきた百済人や、大和民族から招かれた仏教の僧侶や技術者など、大なり小なりユーラシア大陸から海を渡ってきた人々(渡来人または帰化人)もいた。ただし、彼ら移住者はそれぞれ少数であり、速やかに大和民族に統合・同化されたため、国内での大和民族の数的な優位性は変わらなかった。 また、元寇・白村江の戦いなど外国との戦争もあったが、領土の奪取、失陥を伴わず、特に大和民族の影響力を増大・減少させるものではなかった。大和民族は、遣隋使や遣唐使を派遣して、自ら海外の文化や技術を吸収していった。 13世紀以降は、鎌倉時代、南北朝時代、室町時代を通じて、大和民族の分布域は、北海道の渡島半島南部に定着した(渡党を参照)程度で、拡大は停滞した。だが、独特の文化が国風文化として花開き、現在まで続く日本の文化もこの流れを汲むものが多い。[要出典]
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