蘇代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/23 04:01 UTC 版)
蘇 代(そ だい、生没年不詳)は、中国戦国時代の縦横家。東周の洛邑(現在の河南省洛陽市の東)の人。蘇秦の弟で、蘇厲の兄とされるが、『史記』に記述されている兄弟関係と『戦国縦横家書』などの史料考証によれば年代的な矛盾が存在する。主な事跡は『戦国策』に見え、外交折衝や権謀術数などを駆使して戦国時代の政治で暗躍した。
生涯
東周での活動
紀元前312年、楚が韓の雍氏を包囲した。韓は東周王室に援軍と食糧の供給を命じたため、赧王はこれを大いに憂い、蘇代は韓に赴き、韓の重臣・公仲侈を説得した。蘇代は韓の兵員徴発を断念させるとともに、高唐を東周に献上させることに成功した。
魏での活動
紀元前317年、魏では田需と公孫衍が相国の座を争っていた。公孫衍は合従策を推進するため、斉の孟嘗君田文を魏に招き入れ、相国にしようとした。これに対し田需は蘇代を頼り、魏の襄王を説得して田需自身を相国に任用させ、公孫衍と孟嘗君の両者を離間させることに成功した 。
紀元前308年、秦の武王が魏の相国・信安君を秦に招いた。信安君はこれを望まなかったため、蘇代を秦に遣わして武王を説得し、信安君と友好関係を結ぶことで、台頭しつつあった趙を抑圧するよう働きかけた 。
紀元前305年、秦の昭襄王が即位し、甘茂は讒言によって秦から亡命を余儀なくされた。甘茂は蘇代と出会い、「江上の処女」の故事を引いて自身の境遇を喩え、蘇代に助力を求めた。蘇代はこれを受け、甘茂が亡命先の斉で官職を得られるよう画策した 。
楚での活動
紀元前310年、魏の相国・田需が逝去した。楚の宰相・昭奚恤は、魏の襄王が張儀、公孫衍、孟嘗君の三人を相国に任用することを懸念した。そこで蘇代は昭奚恤に依頼され、魏の襄王を説得して太子の魏遫を相国に任命させることに成功した。
紀元前299年、楚の懐王が秦の昭襄王によって秦に囚われた際、蘇代は楚から斉に人質として送られていた太子(後の頃襄王)との関係が悪化していた。このため、紀元前298年に頃襄王が即位した後、蘇代は楚を離れざるを得なかった。
燕での活動
燕の昭王が即位し、四方に有能な人材を募ると、兄弟の蘇秦は燕に赴いて上卿に任じられた。
紀元前293年、蘇秦は昭王の命を受け、斉を滅ぼすという目的で斉に潜入し、湣王の信頼を得て、離間の計を実行した。蘇代もまた蘇秦を頼って燕に身を寄せた。
紀元前292年、趙の恵文王が燕を討伐しようと計画した。蘇秦の離間の計に呼応するため、蘇代は邯鄲に赴き、恵文王に「鷸蚌の争い」の故事を語って諫めた。これにより恵文王は燕への進攻を中止し、燕と同盟を結んだ。
紀元前284年、燕は趙、秦、魏、韓の五カ国と連合して斉に進攻し、斉を滅亡寸前まで追い込んだ(合従攻斉の戦い)。
趙・韓での活動
紀元前260年、秦の将軍白起が長平の戦いで趙に大勝した。大勢の兵を失い、邯鄲を包囲された趙は滅亡の危機に陥った。蘇代は趙と韓に依頼され、秦の相国・范雎を説得して講和を結ぶよう誘導した。翌年、秦と趙は領土と引き換えに停戦し、趙は滅亡を免れた。
参考文献
- 蘇代のページへのリンク