蒯良
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劉表が荊州刺史になったとき、長江以南には宗賊ども、魯陽には袁術、長沙には蘇代、華容には貝羽らがいて、それぞれが軍勢を抱えて混乱を起こしていた。劉表は赴任するなり宜城に入り、蒯良・蒯越・蔡瑁を招いて協議した《劉表伝》。 蒯良は「民衆が懐かぬのは仁が不足しているからです。懐いても安定しないのは義が不足しているからです。仁義の道を行くならば百姓たちは川の流れのように帰服するでありましょう。なぜ任地での不服従を心配し、軍兵を催して策略をお訊ねなさるのですか?」と述べたが、劉表は「利益を示してやれば、彼らは必ず軍勢を率いて来降します」との蒯越の言葉に従い、「子柔どのの言葉は雍季の議論、異度(蒯越)どのの計略は臼犯の策謀ですな」と評した《劉表伝》。 【参照】袁術 / 蒯越 / 臼犯 / 蔡瑁 / 蘇代 / 貝羽 / 雍季 / 劉表 / 華容侯国 / 宜城侯国 / 荊州 / 中廬侯国 / 魯陽県 / 長江 / 長沙郡 / 南郡 / 刺史 / 宗賊 |
蒯良
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/23 16:21 UTC 版)
蒯良 | |
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後漢 吏部尚書 |
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出生 | 生年不詳 荊州南郡中廬侯国 |
拼音 | Kuǎi Liáng |
字 | 子柔 |
主君 | 劉表 |
蒯 良(かい りょう、生没年不詳)は、中国後漢時代末期の政治家。字は子柔。荊州南郡中廬侯国の人。同郷同姓の蒯越とは一族の可能性が高いが、関係は不明である。清の趙翼は『通鑑輯覧』に於いて蒯越の兄だとしている。子は蒯鈞。
正史の事跡
劉表が荊州刺史として赴任した際、蒯越・蔡瑁と共に招かれ、服従しない豪族への対処法について相談された。これに蒯良が「仁愛と信義をもって人民を労わるように」と進言したが、一方の蒯越は「利で誘った上で無道の者を誅し、残りは安撫すべき」と進言した。劉表は蒯良の進言を「(仁義を尊んだ晋の)雍季の議論と同じである」と評価したが、最終的には蒯越の進言の方を採り、荊州を統一した。
『世説新語』の注に引く『晋陽秋』によると、蒯良はその後(恐らく曹操に仕え)吏部尚書にまでなった。
物語中の蒯良
小説『三国志演義』では延平の出身で、蒯越の兄となっている。正史の穏健な性格から一変し、孫堅を討ち取る策を示すなど、軍事面において優れた才能を持っていることになっている。また、孫堅の遺骸を孫策に返すことを止め、この機に孫氏を滅ぼすよう進言するなど、容赦の無い人物として描かれている。
参考文献
- >> 「蒯良」を含む用語の索引
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