『三国志演義』における襄陽の戦い
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「襄陽の戦い」の記事における「『三国志演義』における襄陽の戦い」の解説
孫堅は、焼け落ちた洛陽の復興作業に着手して陵墓を塞いでいたその最中、宮中の古井戸から伝国璽を発見する。孫堅は野心を胸に抱くようになり、発見した玉璽を隠匿するが、現場を目撃した者が袁紹に告げ口したので、孫堅は諸侯の前で釈明を求められる。孫堅はそこで「真実、私が玉璽を隠匿していたなら、命を全うすることなく戦禍によって死ぬ事になるだろう」と啖呵を切り、嘘をつき通したので、諸侯はその言葉を信用する。しかし、袁紹が証人を場に呼ぶと、孫堅は咄嗟に剣を抜き、切り捨てようとする。これら一連の行為によって分の悪くなった孫堅は、洛陽からいち早く陣を引き上げる。諸侯は疑心暗鬼に陥り、反董卓連合軍は解散。ますます疑いを深めた袁紹は、帰途にある孫堅を劉表に攻撃させ、玉璽を奪う事を画策する。 長沙に帰還を果たしたものの、劉表に帰還を妨害された孫堅は兵の大半を失い、劉表に恨みを抱く。些細な事で袁紹と不和になっていた袁術は、孫堅に劉表を攻撃させる事で、袁紹の力を削ぐ事を企て、孫堅に対して江夏攻略を命令する。この戦いにおいて孫堅は、黄祖の守る樊城を落とし、襄陽を包囲すると、囲みを解こうと出撃した蔡瑁にも圧勝する。その最中、包囲軍本陣の帥字旗がにわかに吹き起こった狂風で折れるという凶事が起こった。このため、韓当が「これは不吉の兆しなので退くべきでは」と進言する。しかし、孫堅は聞く耳を持たずに出陣し、蒯良の策謀で呂公がしかけた伏兵の罠にかかり、矢を射かけられ、落石に押し潰されて死亡した。その死体は劉表軍により持ち去られたが、捕虜となっていた黄祖の身柄と引き換えに、この時参陣していた孫策のもとに引き渡された。
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