第一次アフガン戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 11:48 UTC 版)
詳細は「第一次アフガン戦争(英語版)」を参照 現在のアフガニスタン国家の原型となったドゥッラーニー朝を築いたパシュトゥーン人のサドーザイ部族の王家が1818年に統一を失った後、1826年にドゥッラーニー系部族、ムハンマドザイのドースト・ムハンマド・ハーンが代わって権力を握り、バーラクザイ朝国を創始。 シク王国のランジート・シングは、ドゥッラーニー朝の旧王家サドーザイ部族のシュジャー・シャーを支援し、1834年にシュジャー・シャーが最後の反撃をバーラクザイ朝に加え、敗北はしたもののランジート・シングがペシャーワルを獲得した。 1835年にドースト・ムハンマドがアミール・アル=ムウミニーンを称してバーラクザイ朝アフガニスタン首長国を興した。 1837年、en:Battle of Jamrudではアフガニスタン首長国が勝利した結果、シク王国の影響力はカイバル峠までとなった。イギリスは、ロシア帝国の南下政策に対抗するためにアフガニスタン国内への軍の進駐を要求した。ドースト・ムハンマドは、これに対してペシャーワルの回復という対価を要求した。 これに対し、イギリスのインド総督である第2代オークランド男爵ジョージ・イーデンはドースト・ムハンマドの権力掌握を嫌い、シュジャー・シャーと同盟者のランジート・シングを支援して1838年にアフガニスタンに対し宣戦を布告した(シムラ宣言 - 英: Simlah Manifesto)。 1839年1月、イギリス東インド会社軍は、クエッタからアフガニスタン領内に入ると、カンダハール(4月25日)、ガズナ、カーブル(8月7日)を次々に占領した。国王ドースト・ムハンマドは中央アジアのブハラに亡命し、1840年には帰還して再び抵抗するもののイギリスに敗れて投降した。東インド会社軍は一旦アフガニスタンを平定し、シュジャー・シャー国王を復位させた。 だが、バーミヤーンでバーラクザイ朝の勢力が抵抗を続け、またアフガニスタンの各地で侵入軍に対する反乱が勃発し、1842年1月、カーブルに駐留していたイギリス軍は撤退した。カーブル撤退時の冬季の峠越えとアフガン兵の襲撃により、兵士・人夫計1万6千人が全滅し(en:1842 retreat from Kabul)、イギリスが擁立したシュジャー・シャー国王も殺害された。 同年秋、イギリスは報復のために再び派兵し、カーブルと周辺の村落で破壊と、また捕虜となっていたイギリス人の解放を行ったが、この作戦を最後に戦争の継続を断念し、英領インドに捕らえられていたドースト・ムハンマドの帰国と復位が認められて、第一次アフガン戦争は終結した。 ドースト・ムハンマド・ハーン ランジート・シング シュジャー・シャー
※この「第一次アフガン戦争」の解説は、「アフガン戦争」の解説の一部です。
「第一次アフガン戦争」を含む「アフガン戦争」の記事については、「アフガン戦争」の概要を参照ください。
- 第一次アフガン戦争のページへのリンク