第一次アドビウォールズの戦い
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「テキサスのインディアン戦争」の記事における「第一次アドビウォールズの戦い」の解説
第一次アドビウォールズの戦いは1864年11月26日に起こった。アドビウォールズはウィリアム・ベントの日干しれんが造りの交易基地と酒場が放棄された廃墟であり、ハチンソン郡のカナディアン川に近かった。この戦闘は白人と大平原のインディアンとの間で、参加した戦闘員の数では最大級のものになった。ニューメキシコ軍事地区指揮官のジェイムズ・H・カールトンがサンタフェ荷車隊を攻撃するコマンチェ族とカイオワ族を罰することにしたことから起こった。インディアン達は荷車隊を自分達が生きるために必要なバッファローや他の獲物を殺す侵入者と見ていた。 キット・カーソン大佐がニューメキシコの志願兵である第1騎兵隊指揮を任され、コマンチェ族とカイオワ族の冬季宿営地に進行して作戦行動を行うよう告げられた。問題の宿営地はカナディアン川南岸のどこかと報告されていた。1864年11月10日、カーソンは335名の騎兵、75名のユト族およびジカリラ・アパッチ族の斥候を率いてバスコム砦を出発した。それらのインディアンはニューメキシコ準州のシマロンに近いルシアン・マクスウェルの牧場から徴募していた。11月12日にカーソン隊はジョージ・H・ペティス中尉の指揮する山岳榴弾砲2門、27両の荷馬車、1両の救急車両、45日間の食料を補給し、カナディアン川を下ってテキサス州の回廊地帯地域に入った。カーソンは20年前にベントに雇われていたことから勝手を知っているアドビウォールズにまず進行することにした。季節には早い風雪を含み厳しい気候が歩みを遅らせ、11月25日に第1騎兵隊はアドビウォールズから約30マイル (48 km) 西のムーア郡ミュール・スプリングスに到着した。斥候がアドビウォールズでインディアンの大宿営地があることを報告したので、カーソンは騎兵隊に前進を命じ、荷馬車や榴弾砲が後から付いてくるようにした。 11月26日の夜明けから約2時間後、カーソンの騎兵隊がカイオワ族の150戸の集落を攻撃した。ドハーサン酋長と部族民は逃げ出し、近くの同盟コマンチェ族集落に警告を伝えた。カーソンはアドビウォールズまで進んで午前10時頃にそこに塹壕を掘り、廃墟の一画を病院に使った。カーソンはその地域に1つの大変大きな集落を含め数多い集落があり、総計では3,000ないし5,000人のインディアンが居ることが分かり、予測していたよりも遙かに大きな勢力だったので当惑した。カイオワ族のドハーサンがスタンブリングベアやサタンタ(シッティングベア)の助けを借りて最初の攻撃を仕掛けてきた。サタンタはカーソンのラッパ手の音に答えてラッパのように聞こえる音を返したと言われている。カーソンは物資に乏しくなり始めたので、午後には部隊に退却を命じた。怒れるインディアンはその退路を塞ぐために川に近い草地や藪に火を放った。しかしカーソンは火を避けて高台に撤退し、そこで2門の榴弾砲を使ってインディアンの攻撃を防ぎ続けた。薄暮が近付いたとき、カーソンは斥候達の一部に最初の集落の小屋を燃やすよう命じた。カイオワ・アパッチ族の酋長アイアン・シャートはそのティピーを離れるのを拒んだときに殺された。アメリカ軍は戦場から押し返されたもののカーソンの任務は勝利に終わったと宣言した。
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