第一次アフガニスタン戦争
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「ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)」の記事における「第一次アフガニスタン戦争」の解説
イギリス東インド会社が統治するインドの北方にあるアフガニスタン王国は、イギリスにとってロシア帝国との緩衝地帯だったが、1830年代になるとアフガン王ドースト・ムハンマド・ハーンが首都カーブルに秘密裏にロシア外交官を置くなど怪しい行動を取り始める。これについてインド総督オークランド伯爵は、1838年10月にシムラーにおいて「ドーストはロシアと手を組んでインドを侵略するつもりである。インドを護るためにはアフガンへ進攻して、正当なアフガン王であるシュジャー・シャーを王位に就ける必要がある。アフガンの独立が確保された後に我が軍は撤退する。」という宣言を発した。 しかしイギリス本国ではこの宣言について議会や世論からの反対論が根強かった。議会は関係文書の公開を求め、パーマストン子爵もそれに応じたが、公開された関連文書はドーストに好意的な部分が削除され、オークランド伯爵に都合がいいように改編されていた。 結局パーマストン子爵も英国議会もオークランド伯爵の方針に支持を与えたが、当時の電報はインドに到着するまで3カ月はかかったので、オークランド伯爵はその電報を確認することなく総督の自由裁量権で1838年12月からインダス軍にアフガン侵攻を開始させた。英軍は1839年8月にはドーストをカーブルから追って、シュジャー・シャーをアフガン王位に就けることに成功した。しかし1841年11月カーブルで反英闘争が激化して掌握不可能となり、それに乗じてトルキスタンに亡命していた前王の息子アクバル・ハーン(パシュトー語版)がウズベク族を率いてカーブルへ戻ってきたため、イギリス軍は降伏を余儀なくされた。 アクバルはイギリス軍の安全な撤退を保障したが、約束が守られることなく、アクバル自らの手で英国全権公使サー・ウィリアム・マクノートンが殺害されたうえ、撤退する英軍戦闘員と非戦闘員に対しても現地部族民が略奪をしかけてきたため、大量の死者が出た。結局16000人のカーブル駐留イギリス軍で生き残ったのは軍医のウィリアム・ブライドン(英語版)のみであった(第一次アフガン戦争)。大英帝国の威信は傷つき、メルバーン子爵内閣崩壊の原因となった。
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