第一次アフガニスタン戦争とは? わかりやすく解説

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第一次アフガニスタン戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/11 15:10 UTC 版)

ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)」の記事における「第一次アフガニスタン戦争」の解説

イギリス東インド会社統治するインド北方にあるアフガニスタン王国は、イギリスにとってロシア帝国との緩衝地帯だったが、1830年代になるとアフガンドースト・ムハンマド・ハーン首都カーブル秘密裏ロシア外交官を置くなど怪し行動取り始める。これについてインド総督オークランド伯爵は、1838年10月シムラーにおいて「ドーストロシア手を組んでインド侵略するつもりである。インド護るためにはアフガン進攻して、正当なアフガン王であるシュジャー・シャー王位就ける必要があるアフガン独立確保された後に我が軍撤退する。」という宣言発した。 しかしイギリス本国ではこの宣言について議会世論からの反対論が根強かった議会関係文書公開求めパーマストン子爵もそれに応じたが、公開され関連文書ドースト好意的な部分削除されオークランド伯爵都合がいいように改編されていた。 結局パーマストン子爵英国議会オークランド伯爵方針支持与えたが、当時電報インド到着するまで3カ月かかったので、オークランド伯爵はその電報確認することなく総督自由裁量1838年12月からインダス軍にアフガン侵攻開始させた。英軍1839年8月にはドーストカーブルから追ってシュジャー・シャーアフガン王位就けることに成功した。しかし1841年11月カーブル反英闘争激化して掌握不可能となり、それに乗じてトルキスタン亡命していた前王息子アクバル・ハーン(パシュトー語版)がウズベク族率いてカーブル戻ってきたため、イギリス軍降伏余儀なくされた。 アクバルイギリス軍安全な撤退保障したが、約束守られることなくアクバル自らの手英国全権公使サー・ウィリアム・マクノートンが殺害されたうえ、撤退する英軍戦闘員非戦闘員に対して現地部族民が略奪しかけてきたため、大量死者出た結局16000人のカーブル駐留イギリス軍生き残ったのは軍医のウィリアム・ブライドン(英語版)のみであった第一次アフガン戦争)。大英帝国威信は傷つき、メルバーン子爵内閣崩壊原因となった

※この「第一次アフガニスタン戦争」の解説は、「ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)」の解説の一部です。
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