第一次イタリア遠征
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「ハインリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)」の記事における「第一次イタリア遠征」の解説
この頃、ローマ教会は混乱の極みであった。1045年には教皇ベネディクトゥス9世の乱れた私生活に端を発したローマでの暴動の結果、シルウェステル3世(対立教皇とする意見もある)が教皇座を簒奪した。ベネディクトゥス9世は即座に地位を回復するも、その教皇座をグレゴリウス6世に売却した。しかも売却後、シルウェステル3世が復権を目論むのみならず、売り払ったベネディクトゥス9世当人さえもが復権を目論む事態へと展開した。つまりは見苦しい権力闘争が教会内部で続いていた。民衆はこうした事態の解決を神意の地上における執行者としての王に期待した。1046年より、ハインリヒ3世はイタリア遠征を敢行した。 敬虔なキリスト教徒であったハインリヒ3世は、スートリ教会会議において、3人の教皇を罷免してこの混乱の収拾した。そして、北方のハンブルク・ブレーメン大司教であるアーダルベルトを新たな教皇に擁立しようとする。しかしアーダルベルトが北方布教を理由としてこれを拒んだため、バンベルク司教のスイトガーを擁立し、教皇クレメンス2世とした。ハインリヒ3世はこのクレメンス2世から戴冠され、1046年に正式に皇帝となった。なお、この時追放されたグレゴリウス6世に付き添った人物の1人が修道僧ヒルデブラント、後のグレゴリウス7世であった。ハインリヒは翌1047年5月にイタリアから戻った。 しかし、クレメンス2世も1047年10月に死去、後任のダマスス2世もわずか3週間で死去したため、ハインリヒ3世は自らの縁者であるトゥール司教ブルーノを教皇レオ9世とした。レオ9世は前述のヒルデブラントをはじめとするスタッフを教皇庁に集め、シモニアおよび聖職者の妻帯の廃止などの教会改革に尽力した。
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第一次イタリア遠征(第一次対仏大同盟)
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「ナポレオン戦争」の記事における「第一次イタリア遠征(第一次対仏大同盟)」の解説
外交関係は第一次対仏大同盟、戦役はイタリア戦役 (1796-1797年)を参照 1792年のフランス革命戦争の勃発により、1793年にイギリス、オーストリア、プロイセン、スペインなどによって第一次対仏大同盟が結成された。この戦いにおいてフランスの総裁政府は、ライン方面から2個軍、北イタリア方面から1個軍をもってオーストリアを包囲攻略する作戦を企図していた。 1796年3月、イタリア方面軍の司令官に任命されたナポレオン・ボナパルトは攻勢に出る。まず、これまで最前線でフランス軍と対峙してきたサルデーニャ王国をわずか1か月で降伏させ、オーストリア軍の拠点マントヴァを包囲した。オーストリア軍はマントヴァ解放を目指して反撃に出るが、ナポレオンの前にカスティリオーネの戦い(8月5日)、アルコレの戦い(11月15日-17日)、リヴォリの戦い(1797年1月14日)で敗北する。2月2日にマントヴァは開城。オーストリアは停戦を申し入れ、4月18日にレオーベンの和約が成立した。 10月17日、フランスとオーストリアはカンポ・フォルミオの和約を締結。フランスは南ネーデルラントとライン川左岸を併合し、北イタリアにはチザルピーナ共和国などのフランスの衛星国が成立した。オーストリアの脱落で第一次対仏大同盟は崩壊した。
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