第一次イラク戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 15:09 UTC 版)
「アメリカ合衆国の歴史 (1991-現在)」の記事における「第一次イラク戦争」の解説
詳細は「湾岸戦争」を参照 工業化社会が石油に大きく依存しており、その確認埋蔵量の大半が中東の国々にあるということを、1973年さらには1979年の2度のオイルショックでアメリカ合衆国は理解するようになった。1980年代に石油価格は実質ベースで1973年以前のレベルに戻っていたが、石油消費国、特に北アメリカ、西ヨーロッパおよび日本にとっては思いがけない結果になり、中東の主要産油国の莫大な埋蔵量はその地域の戦略的重要性を実証していた。1990年代初期、石油に関わる政治は1970年代初期と同様に危険なものだった。 中東における紛争がまた1つ国際的危機を生んだ。1990年8月2日、イラクが隣国のクウェートを19番目の州として併合することを目指して侵略を開始した。この侵略に先立ち、イラクはアメリカ合衆国国務省にクウェートが傾斜掘削を行っていると苦情を伝えていた。これは数年前から続いていたことだったが、イラクはこの時イラン・イラク戦争の負債を払い経済危機を回避するために石油からの収入を必要としていた。サッダーム・フセイン大統領はその軍隊にクウェート国境に進軍し、侵略の意図があることを警告するよう命令した。駐イラク・アメリカ合衆国大使エイプリル・グラスピーがフセインと緊急会談を開き、その場でフセインは対話を継続する意志を述べた。イラクとクウェートが最終協議の場を持ち、これが決裂した。フセインは自軍をクウェート領内に送った。 アメリカ合衆国当局は、1940年代以降アメリカ合衆国と密接な同盟関係にあり、石油も豊富なサウジアラビアと、イラクのフセイン大統領が今にも戦火を交えようとしていることを恐れた。西側世界はイラクの侵入を侵略行為であるとして非難した。アメリカ合衆国大統領ジョージ・H・W・ブッシュはフセインをアドルフ・ヒトラーに擬え、もしアメリカ合衆国と国際社会が動かなければ、このような侵略行為が世界のどこでも起こるようになると宣言した。 国際連合安全保障理事会の常任理事国5カ国のうちの2つ、アメリカ合衆国とイギリスが委員会を説得してイラクにクウェートから立ち去る日限を通告させた。西側世界は世界経済に悪影響を与えることを恐れ、クウェートの石油供給をフセインの支配下にならないようにする決断をした。フセインは石油輸出国に原油価格を上げ、生産量を削減するよう圧力を掛けた。しかし、西側諸国は1970年代のアラブ諸国による石油禁輸処置で混乱が生じたことを覚えていた。 フセインは撤退の日限を無視し、国際連合安全保障理事会はイラクに対する宣戦を布告した。戦争は1991年1月に始まり、その「砂漠の嵐作戦」ではアメリカ軍が国連軍の大半を占めた。2月下旬にイラク軍がクウェートから撤退する時までに、イラクは約2万人の兵力を失った。ある情報源ではイラク側に10万人に上る損失が出たとしている。
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