1973年以前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 08:35 UTC 版)
「自動車排出ガス規制」の記事における「1973年以前」の解説
日本における排出ガス規制は、1963年(昭和38年)に運輸省船舶技術研究所内に日本初の排気ガス測定装置を設置し、省内にて自動車排出ガス規制のための研究が開始されたことに端を発する。具体的な規制は1966年(昭和41年)、ガソリンを燃料とする普通自動車及び小型自動車の一酸化炭素濃度規制により開始された。これはアイドリング、加速、定速、減速の4つの走行状態(4モード)で台上測定を行い、CO濃度が3%以下となることを普通自動車及び小型自動車の新車に対して義務付けたものである。 当初は運輸省の行政指導という体裁であったが、1968年(昭和43年)には大気汚染防止法が成立したことで法的な根拠も確立され、同年の保安基準にて正式なものとなった。1969年(昭和44年)からは保安基準改正により段階的にCO濃度2.5%以下に規制が強化された。 同時に使用過程車に対しては、1967年(昭和42年)より整備事業者に対して排気ガス対策点検整備要領が交付され、エアクリーナーの状態、キャブレターからの燃料漏れなど16項目の点検整備を励行することが行政指導された。1970年(昭和45年)からは使用過程車に対するCO濃度試験も開始され、アイドリング検査でCO濃度が5.5%以下(1972年(昭和47年)からは4.5%以下)になることが求められるようになった。当時、このような排出ガス規制を本格的に行っていた国家は、大気浄化法のアメリカ合衆国と日本のみである。 1970年(昭和45年)、運輸技術審議会自動車部会において「自動車排出ガス対策基本計画」が策定され、昭和48年・50年の二段階での排出ガスの低減目標を設定。この時点では東京都内の排出ガス総量を、昭和50年において昭和38年相当量へ、昭和55年において昭和36年相当量への抑制を目標とすることを主旨としていた。 同時に、同年5月に東京都新宿区牛込柳町にて発覚した、大気汚染による牛込柳町鉛中毒事件への対策のため、段階的に有鉛ガソリンを無鉛化する方針も決定された。結果的に、昭和53年規制以降の三元触媒の普及にあたり、触媒の寿命を縮める要因の一つである、ガソリン中の鉛が除去される道筋が付けられた。 そして1973年(昭和48年)、新車及び使用過程車に対する排ガス試験項目が、炭化水素及び窒素酸化物にも拡大される形で、昭和48年排出ガス規制が成立。同時に、1970年大気浄化法改正法(マスキー法)を直接の下敷きにする形で、同法が目標としていた1975年式以降のCO / HC及び1976年式以降のNOxは、それぞれ1970年式以前のCO / HC及び1971年式のNOxの少なくとも1/10以下に低減するという環境基準を、日本の排出ガス規制(昭和50年及び51年規制)においても、正式に適用することが決定されたのである。
※この「1973年以前」の解説は、「自動車排出ガス規制」の解説の一部です。
「1973年以前」を含む「自動車排出ガス規制」の記事については、「自動車排出ガス規制」の概要を参照ください。
1973年以前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/12 16:26 UTC 版)
グランドマーチスは1970年11月に伊藤修司厩舎に入厩。当初から大きな期待がかけられ、デビューした翌1971年8月の函館競馬場での新馬戦は直前の追い切りで1番時計を出したグランドマーチスが福永洋一を背に14頭立ての1番人気に支持されたが、ここは中段のまま9着に敗れた。1971年はその後6戦して未勝利だったが、翌1972年1月15日に京都競馬場ダート1400m戦ではそれまでの後方待機策から先行策に切り替え、2着に3馬身差をつけて初勝利を挙げた。続く芝マイルの若菜賞もイン強襲で連勝し、からたち賞では圧倒的1番人気となったが追い込み届かずクビ差の2着。その後6月の大沼ハンデで1勝を挙げ、この年は17戦3勝で終えた。1973年、5歳になったグランドマーチスはデビュー時より32kg増えて478kgと大きく成長し、1月15日の万葉ステークスでは中団から差し切って勝利した。 同じ年に伊藤厩舎に入った新人騎手寺井千万基は障害免許しか持たない障害専門の騎手だったが、当時伊藤厩舎には障害馬がおらず、伊藤修二はそのために祖母に1956年秋の中山大障害に優勝したハクレイをもつグランドマーチスを障害入りさせた。3月3日に騎手デビューとなる寺井千万基を鞍上に障害戦初出走を行った。ここは2着に敗れたが、2戦目で1番人気に応えて初勝利。この年は障害13戦で3勝を挙げた。
※この「1973年以前」の解説は、「グランドマーチス」の解説の一部です。
「1973年以前」を含む「グランドマーチス」の記事については、「グランドマーチス」の概要を参照ください。
1973年以前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 02:23 UTC 版)
「パトリック・デパイユ」の記事における「1973年以前」の解説
元々は2輪でレース活動を行っていたが、その後4輪レースに転向。1967年よりフランスF3に参戦すると、1971年にはチャンピオンを獲得。 翌1972年にはティレルのサードドライバーとして、F1に2度スポット参戦。デビュー戦である第6戦フランスGPでは、周回不足により完走として扱われなかったが、最終戦アメリカGPでは11位で完走している。 1973年はヨーロッパF2にスポット参戦。前年同様ティレルからF1スポット参戦の予定もあったが、オートバイ事故で負傷し断念する。
※この「1973年以前」の解説は、「パトリック・デパイユ」の解説の一部です。
「1973年以前」を含む「パトリック・デパイユ」の記事については、「パトリック・デパイユ」の概要を参照ください。
- 1973年以前のページへのリンク