1973年以降のフラッシュとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 1973年以降のフラッシュの意味・解説 

1973年以降のフラッシュ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/14 05:59 UTC 版)

フラッシュ (バンド)」の記事における「1973年以降のフラッシュ」の解説

バンド解散後数年間、メンバーたちはさまざまな組み合わせ一緒に仕事続けることになったベネットカーターは、キーボード奏者のクリス・ピジョン、元フレイミング・ユースメンバーギターのゴードン・スミス(後に元サヴォイ・ブラウンのバリー・ポールと交代)と、最終的にハフメンバー加え別のバンド始めようとした。ロンドンのマーキー・クラブで唯一のギグ行った後、バンド(非公式なバンド名はBlaze)はニューヨーク定住したものの、レコード契約確保できず(経営陣より良いものを期待していくつかのオファー断った)、解散した。この直後カーターハフは、ニューヨークキーボード奏者アル・グリーンウッドと共にニューヨークで活動していた別のバンドストーム (Storm)の一員となった。このバンドまた、デビュー失敗しグリーンウッドはるかに成功したバンドフォリナーにたどり着いた。レイ・ベネットは、バンド結成がされている中で、ベースフォリナー参加するよう招待されたが辞退した1975年バンクスはシドニー・ジョーダン(別名シドニー・フォックス)とアンドリュー・マカロックドラム、元キング・クリムゾンで元グリーンスレイド)との新しプロジェクトベネット招待したロンドンでの最初リハーサルはデモ・レコーディングにつながったが、ピート・タウンゼントとロバート・スティグウッドの手助けを得ながらも、バンクス契約を得ることができなかった。その後ベネットジョーダンマカロック別のデモ録音したが、そこにバンクス含まれなかった。 1976年ベネットは、再びジョーダンフィーチャーしたバンクス新しプロジェクトエンパイア」の一員となったが、この再会短命に終わった1980年代初頭ロサンゼルス拠点を置く元フラッシュ・メンバー全員による再結成試みた失敗したバンクスベネットは再びバラバラになるまで非公式ながら一緒に演奏をし続けた1997年リリースされアルバム『Psychosync』は、WLIRラジオ放送のために1973年行われたライブ録音だけでなく、テレビ番組ミッドナイト・スペシャル』で演奏された2曲も一緒にとめられている。 最近になり、ベネットカーターフラッシュ名義で、再び一緒に演奏するようになったハフ当初関与していたが後に脱退しバンクス参加するという話もあったが、結局バンクスベネットカーターと再び衝突して話は流れた)。 ベネット(現在はリード・ギター)とカーターは、メキシコ2005年行われたBaja Prog Festival」にてフラッシュ名義デュオとして一緒に演奏したベネットカーターは、2009年7月に「フラッシュ/ベネットカーター」のMySpaceサイトにて、新しフラッシュマテリアル掲載した新曲タイトルは「Grand Canyon」「How the West Was Won (後に『Into the Sun』に変更)」「10,000であった再結成フラッシュビデオYouTubeで見つけることができる。 新しマテリアル加えてフラッシュ以前アルバムリリースされていたオリジナルフラッシュによる楽曲のリハーサル・ビデオを投稿した。これには、デビューアルバムフラッシュ』(1972年)の「Children of The Universe」、3枚目のアルバム『アウト・オブ・アワ・ハンズ』(1973年)の「Manhattan Morning」などが含まれていた。 2010年8月31日フルバンドとしては解散以来初となる一般公開行い次回のミニ・ツアーに向けて「ライブ・ドレス・リハーサル」を行った。それはラスベガス南東ネバダ州ヘンダーソンにあるE-String Bar行われたラインナップは、コリン・カーター(ボーカル)、レイ・ベネット(ギターボーカル)、ウェイン・カーヴァー(ベースボーカル)、マーク・パーディ(ドラムス)、リック・ドハーティ(キーボード)。 フラッシュは、2010年9月4日ノースカロライナ州チャペルヒル開催された「International ProgDay Festival」のヘッドライナーとして公式に再結成デビュー果たしたピーター・バンクス2013年3月亡くなったのは、2013年5月40年ぶりにフラッシュアルバムFlash Featuring Ray Bennett & Colin Carter』(クレオパトラ・レコード)をリリースする予定直前のことだった。バンクスは、突然の死迎え前にそのアルバムからの3曲を聴いており、それらが好きで、特にバンド初のカバー曲、NIN/トレント・レズナーの「Hurt」が好きだ報じていた。 2013年リリースされた、カンザスシティにあるカウタウン・ボールルームでの1973年コンサートからのライブ録音アルバム『フラッシュ・イン・パブリック - フィーチャーリング・ピーター・バンクス』は、ピーター・バンクスによって自らの死の時に準備されていた。

※この「1973年以降のフラッシュ」の解説は、「フラッシュ (バンド)」の解説の一部です。
「1973年以降のフラッシュ」を含む「フラッシュ (バンド)」の記事については、「フラッシュ (バンド)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「1973年以降のフラッシュ」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

1973年以降のフラッシュのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



1973年以降のフラッシュのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのフラッシュ (バンド) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS