第一次アラブ・ハザール戦争と余波
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「アラブ・ハザール戦争」の記事における「第一次アラブ・ハザール戦争と余波」の解説
ハザールは602年から628年にかけて続いたビザンツ帝国とサーサーン朝の戦争中に西突厥の配下としてコーカサスにおける最初の軍事行動を起こした(第三次ペルソ・テュルク戦争)。テュルク人はデルベントを破壊し、ビザンツ軍とともにティフリス(現在のトビリシ)の包囲に加わった。この協力はサーサーン朝に対するビザンツ帝国の最終的な勝利に決定的な影響を及ぼすことになった。その後の数年間、ハザールがイベリア(英語版)(ほぼ現在のジョージアに相当する地域)、アルバニア(現在のアゼルバイジャンに相当する地域)、およびアーザルバーイジャーン(現在のイランの最北西部)をある程度統制していた一方、南コーカサスの南西部を占めるアルメニアはビザンツ帝国の勢力下に残っていた。しかし、630年か632年頃に内部紛争によってハザールもしくは西突厥の君主が死亡したのち、南コーカサス東部におけるハザールの活動は停止した。 アラブとハザールはイスラーム教徒の初期の征服活動の結果として双方の間で紛争状態に置かれることになった。640年までにアラブ人はアルメニアに到達し、642年にはアブドゥッラフマーン・ブン・ラビーア(英語版)の下でコーカサスを縦断して最初の襲撃を開始した。イラン北部出身の歴史家であるタバリーの『諸使徒と諸王の歴史(英語版)』によれば、この襲撃はデルベントに達し、そこでペルシアの太守であるシャフルバラーズとその追随者たちがジズヤ(異教徒に課される租税)の負担を軽減するのであれば要塞を明け渡し、さらには要求に従わない土着のコーカサスの住民に対して助力することを申し出た。この提案はカリフのウマル・ブン・アル=ハッターブ(在位:634年 - 644年)によって認められた。 645年か646年にアラブ軍はハザール人とアラン人の兵が構成する部隊で増強されていたビザンツ軍をアルメニアで破った。その結果、650年代初頭に南コーカサスにおけるアラブの覇権が確立されることになった。652年にはテオドロス・ルシュトゥニ(英語版)を代表とするアルメニア貴族がカリフの君主としての地位を認め、654年のアルメニア人の反乱も失敗に終わり、アラブの覇権はイベリアにも広がっていった。 タバリーはアラブ人による最初のハザールの地への侵攻は早ければ642年に始まったとしており、アブドゥッラフマーン・ブン・ラビーアは損害を被ることなくバランジャルに到達し、配下の騎兵隊はバランジャルの北へ200パラサング(約800キロメートル)に至るまで侵攻したと主張している。しかし、侵攻の日付とアラブ軍が人的消耗を被ることがなかったという信じ難い主張は現代の学者たちによって議論の対象となっている。デルベントを拠点とするアブドゥッラフマーンは、その後の数年間にわたって頻繁に行われたハザールに対する襲撃を率いたものの、これらは小規模な事件であり、文献において大きな重要性をもって扱われている出来事はない。651年か652年には警戒と自制を促すカリフの指示を無視し、アブドゥッラフマーンがバランジャルの占領を目指して強力な軍隊を率い北へ向かった。しかし、アラブ軍はバランジャルを数日間包囲したものの、ハザールの救援部隊の到着に加えて、都市側から総攻撃を受けたことが重なり大敗を喫した。戦いの後にはアブドゥッラフマーン(または9世紀の歴史家のバラーズリー(英語版)によれば、アブドゥッラフマーンの兄弟のサルマーン・ブン・ラビーア(英語版))と4,000人のイスラーム教徒の兵士の遺体が戦場に残された。3年後、ハザールはハビーブ・ブン・マスラマ・アッ=フィフリー(英語版)が率いる報復的な軍事侵攻を撃退した。これらの襲撃を受けた影響によって、ハザールはアラブ軍の到達を回避することを目的にバランジャルを放棄して首都をさらに北へ移動させた。 その後、正統カリフ時代末期の内戦である第一次内乱(英語版)が勃発し、他の戦線への対処を優先させたことから、アラブ人は8世紀初頭まで再びハザールへの攻撃に乗り出すことを控えた。一方、ハザールの側ではイスラーム教徒の緩やかな支配の下に置かれていた南コーカサスの諸勢力に対して数度襲撃に乗り出した程度であった。661年か662年のアルバニアへの襲撃では地方勢力の統治者に敗北したものの、683年もしくは685年の南コーカサスを縦断する大規模な襲撃はイスラーム世界が内戦(第二次内乱)の最中であった影響もあり大きな成功をおさめ、多くの戦利品と捕虜を獲得した。それぞれイベリアとアルメニアの君主であったアダルナゼ2世(英語版)とグリゴル1世マミコニアン(フランス語版)は、襲撃への抵抗を試みたものの殺害された。
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