第一次アラブ・ハザール戦争と余波とは? わかりやすく解説

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第一次アラブ・ハザール戦争と余波

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 09:41 UTC 版)

アラブ・ハザール戦争」の記事における「第一次アラブ・ハザール戦争と余波」の解説

ハザール602年から628年にかけて続いたビザンツ帝国サーサーン朝戦争中西突厥配下としてコーカサスにおける最初軍事行動起こした第三次ペルソ・テュルク戦争)。テュルク人デルベント破壊しビザンツとともにティフリス現在のトビリシ)の包囲加わった。この協力サーサーン朝対すビザンツ帝国最終的な勝利決定的な影響を及ぼすことになったその後数年間、ハザールイベリア英語版)(ほぼ現在のジョージア相当する地域)、アルバニア現在のアゼルバイジャン相当する地域)、およびアーザルバーイジャーン現在のイラン最北西部)をある程度統制していた一方南コーカサス南西部占めアルメニアビザンツ帝国勢力下に残っていた。しかし、630年632年頃に内部紛争によってハザールもしくは西突厥君主死亡したのち、南コーカサス東部におけるハザール活動停止したアラブハザールイスラーム教徒初期征服活動結果として双方の間で紛争状態に置かれることになった640年までにアラブ人アルメニア到達し642年にはアブドゥッラフマーン・ブン・ラビーア(英語版)の下でコーカサス縦断して最初襲撃開始したイラン北部出身歴史家であるタバリーの『諸使徒と諸王の歴史英語版)』によれば、この襲撃デルベント達し、そこでペルシア太守であるシャフルバラーズとその追随者たちがジズヤ異教徒課される租税)の負担軽減するであれば要塞明け渡しさらには要求従わない土着のコーカサス住民に対して助力することを申し出た。この提案カリフのウマル・ブン・アル=ハッターブ(在位634年 - 644年)によって認められた。 645年646年アラブ軍はハザール人アラン人の兵が構成する部隊増強されていたビザンツ軍をアルメニア破ったその結果650年代初頭南コーカサスにおけるアラブ覇権確立されることになった652年にはテオドロス・ルシュトゥニ(英語版)を代表とするアルメニア貴族カリフ君主として地位認め654年アルメニア人反乱失敗終わりアラブ覇権イベリアにも広がっていった。 タバリーアラブ人による最初ハザールの地への侵攻早ければ642年始まったとしており、アブドゥッラフマーン・ブン・ラビーアは損害を被ることなくバランジャルに到達し配下騎兵隊はバランジャルの北へ200パラサング(約800キロメートル)に至るまで侵攻した主張している。しかし、侵攻日付アラブ軍が人的消耗を被ることがなかったという信じ難い主張現代学者たちによって議論対象となっている。デルベント拠点とするアブドゥッラフマーンは、その後数年間にわたって頻繁に行われたハザール対す襲撃率いたものの、これらは小規模な事件であり、文献において大きな重要性をもって扱われている出来事はない。651年652年には警戒自制を促すカリフ指示無視しアブドゥッラフマーンがバランジャルの占領目指し強力な軍隊率い北へ向かった。しかし、アラブ軍はバランジャルを数日間包囲したものの、ハザール救援部隊到着加えて都市側から総攻撃受けたことが重なり大敗喫した戦いの後にはアブドゥッラフマーン(または9世紀歴史家バラーズリー英語版によればアブドゥッラフマーン兄弟のサルマーン・ブン・ラビーア(英語版))と4,000人のイスラーム教徒兵士遺体戦場残された。3年後ハザールはハビーブ・ブン・マスラマ・アッ=フィフリー(英語版)が率い報復的な軍事侵攻撃退した。これらの襲撃受けた影響によって、ハザールアラブ軍の到達回避することを目的にバランジャルを放棄して首都をさらに北へ移動させた。 その後正統カリフ時代末期内戦である第一次内乱英語版)が勃発し、他の戦線への対処優先させたことから、アラブ人8世紀初頭まで再びハザールへの攻撃乗り出すことを控えた一方ハザールの側ではイスラーム教徒緩やかな支配の下に置かれていた南コーカサス諸勢力に対して数度襲撃乗り出した程度であった661年662年アルバニアへの襲撃では地方勢力統治者敗北したものの、683年もしくは685年南コーカサス縦断する大規模な襲撃イスラーム世界内戦第二次内乱)の最中であった影響もあり大きな成功をおさめ、多く戦利品捕虜獲得したそれぞれイベリアアルメニア君主であったアダルナゼ2世英語版)とグリゴル1世マミコニアン(フランス語版)は、襲撃への抵抗試みたものの殺害された。

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