第一次『演劇界』とは? わかりやすく解説

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第一次『演劇界』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 14:56 UTC 版)

演劇界」の記事における「第一次『演劇界』」の解説

太平洋戦争中1943年11月戦争激化に伴う用紙不足を背景としてそれまで存在していた『国民演劇』、『演藝画報』、『演劇』、『東寶』(東宝)、『現代演劇』、『寶塚歌劇』(宝塚歌劇)の6つ演劇雑誌情報局斡旋によって統合整理され有限会社日本演劇社が発足した日本演劇社は新たに研究・評論目的とした『日本演劇』と観客向けの鑑賞指導目的とした『演劇界』を創刊、「両誌以外には演劇雑誌存在許されない状況となった。『演劇界』の創刊号にはこのような経緯説明した創刊之辞」の他に、大谷竹次郎の「戦力増強演劇活用の道」や、大政翼賛会宣伝部長及び芸能班長情報局芸能課、大日本産業報国会宣伝部松竹東宝人間市川猿之助参加の「演劇観衆をめぐる座談会」といった記事巻頭掲載されいずれも決戦態勢」下における演劇観客協力努力必要性説く論調であった。 こうして新たに創刊された『演劇界であったが、実際は6誌のうち1907年明治40年創刊で最も歴史長かった演藝画報』の編集部とその編集方針引き継いでいたほか、『演藝画報』の最終号にも「「演劇界」は、主として演劇観客読者とし、舞台鑑賞資し、その向上を目指すもので、演藝畫報を一層現実化させたものであります」とあり、一般的に演劇界』は『演藝画報』の後身として見られている。現在の演劇界編集部も『演藝画報としての創刊年をとって100年上の歴史があるとしている。 当初情報局日本演劇社の社長に岡鬼太郎据え予定であったが、創刊号刊行直前に岡が急死久保田万太郎2代目社長として指名された。戦中の『演劇界』の刊行にも困難が伴い藤田洋によれば昭和二十年は、二月号までで、印刷所罹災により三月号より五月号は焼失、六・七月号を『日本演劇』と合併」する有様だったという。終戦後10月号から刊行再開するも、戦後経済長期的な混乱影響大きく刊行不定期になりながら1950年2月には日本演劇自体倒産した債権者である大同印刷が『演劇界』のみを新会社から発刊継続させる方針示したため、久保田万太郎は『日本演劇』(同年4月廃刊)の編集長務めていた戸板康二に社の再建打診したが、戸板辞退代わりに推挙され利倉幸一指揮の下、演劇新社設立され第二次『演劇界』刊行始まった

※この「第一次『演劇界』」の解説は、「演劇界」の解説の一部です。
「第一次『演劇界』」を含む「演劇界」の記事については、「演劇界」の概要を参照ください。

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