第一次『演劇界』
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太平洋戦争中の1943年11月、戦争激化に伴う用紙不足を背景としてそれまでに存在していた『国民演劇』、『演藝画報』、『演劇』、『東寶』(東宝)、『現代演劇』、『寶塚歌劇』(宝塚歌劇)の6つの演劇雑誌が情報局の斡旋によって統合・整理され有限会社日本演劇社が発足した。日本演劇社は新たに、研究・評論を目的とした『日本演劇』と観客向けの鑑賞指導を目的とした『演劇界』を創刊、「両誌以外には演劇雑誌は存在を許されない」状況となった。『演劇界』の創刊号にはこのような経緯を説明した「創刊之辞」の他に、大谷竹次郎の「戦力増強と演劇活用の道」や、大政翼賛会宣伝部長及び芸能班長、情報局芸能課、大日本産業報国会宣伝部、松竹、東宝の人間と市川猿之助ら参加の「演劇観衆をめぐる座談会」といった記事が巻頭に掲載され、いずれも「決戦態勢」下における演劇と観客の協力・努力の必要性を説く論調であった。 こうして新たに創刊された『演劇界』であったが、実際は6誌のうち1907年(明治40年)創刊で最も歴史の長かった『演藝画報』の編集部とその編集方針を引き継いでいたほか、『演藝画報』の最終号にも「「演劇界」は、主として演劇観客を読者とし、舞台鑑賞に資し、その向上を目指すもので、演藝畫報を一層現実化させたものであります」とあり、一般的に『演劇界』は『演藝画報』の後身として見られている。現在の『演劇界』編集部も『演藝画報』としての創刊年をとって100年以上の歴史があるとしている。 当初、情報局は日本演劇社の社長に岡鬼太郎を据える予定であったが、創刊号の刊行直前に岡が急死、久保田万太郎が2代目の社長として指名された。戦中の『演劇界』の刊行にも困難が伴い、藤田洋によれば「昭和二十年は、二月号までで、印刷所の罹災により三月号より五月号は焼失、六・七月号を『日本演劇』と合併」する有様だったという。終戦後、10月号から刊行を再開するも、戦後経済の長期的な混乱の影響は大きく、刊行が不定期になりながら1950年2月には日本演劇社自体が倒産した。債権者である大同印刷が『演劇界』のみを新会社から発刊継続させる方針を示したため、久保田万太郎は『日本演劇』(同年4月に廃刊)の編集長を務めていた戸板康二に社の再建を打診したが、戸板は辞退。代わりに推挙された利倉幸一の指揮の下、演劇新社が設立され、第二次『演劇界』の刊行が始まった。
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