第二次『演劇界』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 14:56 UTC 版)
刊行が始まってすぐの時分、演劇新社の編集室は築地新富町の利倉の自宅に、営業部は神保町2丁目11の新しき村東京事務所にそれぞれ置かれていたが、1957年3月に神保町の事務所が改築され、雑誌としての全機能が一箇所に集められた。また社名についても1952年に演劇新社から現行の演劇出版社へと変更された。 昭和三十年代も中頃を過ぎると、終戦後に次々と発刊された『幕間』、『役者』、『劇評』などの演劇雑誌のほとんどが、メディアとして普及しつつあったテレビと入れ替わるように廃刊となり、初期の第二次『演劇界』を取り囲んでいた「何種類もの月刊誌が発行され、芝居好きはどれを買おうかと」迷っていた「歌舞伎雑誌氾濫期」が終焉を迎えた。こうして実質的に唯一の歌舞伎専門雑誌となった『演劇界』は、1962年の十一代目市川團十郎襲名のころには「発行部数七千部、返本四割。(中略)実売四二〇〇部」ほどだったのが、昭和四十年代の「三之助」ブーム、尾上菊之助主演の大河ドラマ『源義経』の放送といった歌舞伎人気の潮流を受け、「部数は二万部を超えて」実売では「四倍強」になるなど、徐々に経営的安定が得られるようになっていった。 演劇界に載った利倉の遺稿に「私の後半生は「演劇界」の存続のためにあったようなもの」と語られているように、第二次『演劇界』は利倉の努力によって維持されていたと評価する人間が多い。藤田洋はこの遺稿の同じ部分を引いて利倉の「情熱が雑誌を守り続けてきたといえる」と述べ、児玉竜一も「この人にしてこの雑誌あり」と評している。第一次の『演劇界』から受け継いだものはゴム印三つばかりだったというほどの窮状から社と雑誌を立て直した利倉は『演劇界』を「かぶきの応援団」と位置づけ、「鑑賞と記録と批評」を重視した。特に「記録」については、『演藝画報』と第一次『演劇界』が興業の記録を載せないことがあった反省から、毎号必ず興行記録を載せるようにし、「批評」に関しても「新聞劇評が凋落した」中にあって『演劇界』だけは質の高いものを掲載し続ける必要があると考えていた。利倉編集長時代の『演劇界』には藤田洋の他、大谷竹次郎賞を受賞した野口達二、『花顔の人 花柳章太郎伝』で大佛次郎賞をとった大笹吉雄、後に小説家となった有吉佐和子といった人物も関わっていたことがあったが、1981年5月、利倉が脳血栓を患い、1982年から藤田が社長兼編集長となる。 1984年の7月号に載せた十七代目中村勘三郎の『夏祭浪花鑑』のお辰役の写真が裏焼きのまま掲載されるという不祥事が起きると、写真中の自分が左前になってしまったことに腹を立てた勘三郎は弁護士を立てて、7月号の回収を要求するとともに、今後『演劇界』に自身の写真を掲載することを禁じた。これに対処する形で、利倉が社長兼編集長に復帰した上で新たに土岐迪子が編集長代理となり、藤田も『演劇界』を離れたものの、この決定のすぐ後利倉が心不全で死亡、演劇出版社による社葬が執り行われた。 藤田によれば、利倉の死後、社長・編集長の職が「リレー式」に受け継がれる形で運営されていたが、『演藝画報』から数えて創刊百年に当たる2007年に経営状況の悪化が原因で第二次『演劇界』は5月号で一時休刊となった。「100周年記念新創刊」と題された刊行再開までの3ヶ月には、最後の編集長秋山勝彦の主導で『演劇界月報』と呼ばれる冊子が刊行され、上演記録が途絶えないようになされた。
※この「第二次『演劇界』」の解説は、「演劇界」の解説の一部です。
「第二次『演劇界』」を含む「演劇界」の記事については、「演劇界」の概要を参照ください。
- 第二次『演劇界』のページへのリンク