第二次アクレ共和国の独立宣言
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/01 14:21 UTC 版)
「アクレ紛争」の記事における「第二次アクレ共和国の独立宣言」の解説
リノ・ロメロの統治政策により、アクレ地方のブラジル人入植者たちの不満は高まった。この頃、ブラジル人入植者の中でホセ・プラシド・デ・カストロ(ポルトガル語版、スペイン語版)が頭角をあらわしていた。プラシド・デ・カストロは、1900年の反乱が失敗した原因を規律と指導者の欠如と分析し、これを補うためブラジル人の元将校を集めた。また密かに武器や弾薬をアクレ地方に運びこんでいた。 1902年7月、反乱軍は作戦会議を開き、ここでプラシド・デ・カストロは、プエルト・アロンソへの奇襲攻撃を主張した。しかし、他の反乱軍の幹部は1900年の失敗の再現を恐れ、これに同意せず、ボリビア人の警察官が数名駐在していたシャプリ(英語版、ポルトガル語版)で蜂起することを提案した。プラシド・デ・カストロは、これに同意した。 1902年8月6日、早朝、プラシド・デ・カストロは数十名の同志と共に、アクレ川沿いのシャプリにあったボリビア政府の拠点を襲撃した。奇襲は成功し、拘束したボリビアの役人たちをブラジルに強制送還した。翌8月7日、プラシド・デ・カストロは、アクレの独立を宣言した。
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