第二次および第三次関宿合戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/14 07:25 UTC 版)
「簗田晴助」の記事における「第二次および第三次関宿合戦」の解説
永禄10年(1567年)、晴助は出家して家督を子・持助に譲ったものの依然として家中の実権は握っていた。 永禄11年(1568年)、氏康は次男・北条氏照に命じて再度関宿城を攻撃させた。氏照の攻撃の前に関宿城は落城間近かと思われたが、永禄12年(1569年)には武田信玄が甲相駿三国同盟を破棄して駿河侵攻を行うと、氏康は上杉謙信との越相同盟を模索し、信玄はこれに対し北条方牽制のため西上野衆に北武蔵の北条領国への侵攻を行わせており、同年3月には晴助にも書状が送られている。これにより双方が関宿城の現状維持と足利義氏の古河復帰が合意されて、氏照は関宿から撤退した(第二次関宿合戦)。 とはいえ、里見氏や佐竹氏といった関東の反北条派大名の憤懣は納まらず、晴助は彼らと共に足利藤氏の弟で里見氏の許にいた足利藤政を担ぎ上げて甲斐武田氏と同盟を締結した。だが、皮肉にもその直後に北条氏康が病死して甲相同盟が復活することになり、結果的に晴助は北条・武田・上杉の3氏全てと敵対してしまうのである。 天正2年(1574年)、北条氏照が再び関宿城を攻撃した。これには北条氏を継いだ兄・北条氏政の援軍や結城氏・千葉氏といった同盟諸国の兵も含まれていた。一方、晴助は和解をした上杉謙信や佐竹義重に援軍を求めた。だが、どちらも援軍には応じたものの、先年の越相同盟に対する佐竹氏側の謙信への不信感から、共同作戦が取れずに有効な関宿救援策は打ち出せなかった。戦いは一年近くに及んだが、閏11月ついに北条軍の総攻撃が開始された。晴助らは奮戦するが、一族・家臣の裏切りや兵糧・弾薬が底を突いたため、佐竹義重の仲介で遂に関宿城を北条軍に明け渡すことになった。足利藤政は晴助親子の助命と引き換えに自害して(異説あり)、晴氏は支城の水海城へと追放された(第三次関宿合戦)。この戦いの後、結果的に足利藤政を見殺しにした上杉・佐竹両氏に対する晴助親子の不信感は高まり、特に持助は足利義氏との和睦に応じて義氏の許に出仕することとなり、下総進出を図る佐竹氏と争うことになった。
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