古河復帰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 00:10 UTC 版)
1986年、「まだ選手として衰えないうちに」日本のサッカー界に持てる全てを伝えたいとして、ブレーメンからの契約延長要請を固辞、キリンカップにブレーメンの選手として出場、日本代表と対戦した他、パルメイラス戦では後に会長と選手の間柄になる三浦知良と数度に渡り激しくマッチアップした。この大会を最後に、古巣の古河電工に復帰した。 帰国した奥寺は木村和司と共に日本国内初のスペシャル・ライセンス・プレーヤー契約を結び注目を集めた。この年のアジアクラブ選手権決勝大会ではアル・ヒラル戦で3ゴールを挙げるなど、優勝に貢献した。ドイツでプレーしていたため代表に選出されることはなかったが、古川復帰にともない日本代表にも復帰し1987年のソウル五輪アジア最終予選進出に貢献した。最終的に中国との争いとなり、左サイドバックとして第1戦では相手エースを完璧に抑え1-0の勝利に貢献したが、ホームの第2戦では引き分けでもオリンピック出場権が獲得出来たが、奥寺の逆サイドを守備の穴として狙われ、0-2で落としソウル五輪出場は叶わなかった。1988年8月12日、ナポリとの親善試合は代表での引退試合となった(先発出場し23分間プレー)。 1987-88年シーズンを最後に現役を引退した。
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