古河府の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/05/07 19:40 UTC 版)
(詳細については「古河公方」を参照) 第5代鎌倉公方・足利成氏は、享徳3年(1454年)12月に始まった享徳の乱で、関東管領・上杉氏および室町幕府と対立。享徳4年(1455年)3月、遠征中に下総・古河に入り、6月に幕府軍の攻撃により鎌倉を失うと根拠地を古河へ移した。以後、古河公方と呼ばれ、鎌倉公方の政治・権力を担った鎌倉府も古河に移転した。主な御所は古河城。城内には「御奏者所」と呼ばれた公方近習の詰所があったことが分かっており(『松陰私語』)、古河府の政庁も古河城内にあったと考えられる。 文明14年11月(1483年1月)に成氏は幕府と和睦し、享徳の乱が終結したが、その後も引き続き古河を御所とする。永正年間(1504-1520年)には、第2代足利政氏が関東管領・上杉顕定との連携を強め、鎌倉府以来の「公方-管領体制」を再構築しようとする。この政氏と第3代足利高基との抗争は古河府を分裂させ、永正14年(1517年)に成立した小弓公方・足利義明との対立へと発展した。 天文7年(1538年)、第4代足利晴氏は北条氏綱の力を借り、国府台合戦で小弓公方を討ち滅ぼしたものの、後北条氏が古河府内に浸透する契機となる。後北条氏は関東支配の正当化のため、古河公方の権威を必要としたが、第5代足利義氏のときに関東支配が確定的になると、古河公方権力を解体してその支配体制に取り込み、天正10年(1582年)閏12月に義氏が死去(三島暦による・京暦では天正11年)すると、名実ともに古河公方は消滅した。
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