編集長時代
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「ファーンズワース・ライト」の記事における「編集長時代」の解説
ヘナバーガーがウィアード・テイルズを創刊した当初、初代編集長エドウィン・ベアードが編集作業を行っていたが既に4万ドルから6万ドル(現在の50万~84万ドル相当)の負債があり、これらのためにヘナバーガーは、他の雑誌のタイトルを売却したり印刷会社ポピュラー・フィクション・パブリッシングなどと交渉し、隔月にするなどして持ち堪えていた。エドガー・アラン・ポーのファンだったヘナバーガーは、ホラー作品に絞った専門誌を望んでおり、そのためにウィアード・テイルズを何としても守りたい一心でやり繰りしていたがライトは、ヘナバーガーからコントロールを預かると紙面の刷新を図った。 ライトは、ウィアード・テイルズの掲げる「ユニークなストーリー」を達成するため幅広い作家陣を集めた。剣と魔法ファンタジー、『英雄コナン』のロバート・E・ハワード、宇宙と科学、呪文を折り合わせた宇宙的恐怖(コズミック・ホラー)のラヴクラフト、探偵小説のシーベリイ・クイン、E・ホフマン・プライス、オリエンタルファンタジーのフランク・オーウェン、SF作家のエドモンド・ハミルトン、ポール・フレデリック・エルンスト、ニクジン・ウィルストン・ディアルイスなどである。これは、ヘナバーガーがポーやマッケンのような作品に絞ったために売り上げが落ち込んだ、その解決策といえる。 E・ホフマン・プライスが1925年7月号から6ヶ月『Stranger from Kurdistan』を執筆した時、イエス・キリストとサタンが会う場面がありライトは、読者の反応を心配した。しかし好評を受け、彼は、1929年12月号に再集録した。プライスの『The Infidel's Daughter』が出版された時は、クー・クラックス・クランから苦情が来ている。ジョージ・フィールディング・エリオットの『The Copper Bowl』では、人をネズミに食わせる拷問なども登場したがライトは、掲載している。 ヘナバーガーは、より目立つようにベッドシーツサイズのパルプ紙に切り替えていたがライトは、これを標準の物に戻した。また表紙のイラストレーターにマーガレット・ブランダージを起用するなどした。ブランダージは、女性のヌードや怪物を得意としていた。彼女は、シーベリイ・クインの作品をイメージして表紙をデザインしていた。ヴァージル・フィンレイは、1935年にはじめて作品をライトに送った。ライトは、彼の作品がパルプ雑誌では、上手く印刷されていないと考え印刷会社と交渉するなどした。1939年、ニューヨーク市長フィオレッロ・H・ラ・ガーディアは、性的な発刊物を取り締まるキャンペーンを行い、これは、効果があったらしく表紙は、穏やかなデザインに移行していった。致命的だったのは、1938年にデラニー社がウィアード・テイルズを買収し、カバーイラストの報酬を50ドルに値下げしたことにあった。当時、平均的に90ドルだった報酬に対し、ライトは、新人のフィンレイにも100ドルを支払っており、これは、明らかに品質の低下を招いた。 長年、ウィアード・テイルズは、競合相手がいない状態が続いたが1926年にSF専門誌『アメージング・ストーリーズ』や1939年には、ジョン・W・キャンベルが編集を務める『アンノウン』が登場する。取り分けロバート・E・ハワードのような剣と魔法ファンタジーは、根強い人気があったもののSF人気が高まっていることをライトも承知しており、フリッツ・ライバーの作品は、はじめライトによって断られ、彼がアンノウンに持ち込むとキャンベルからは、「これらは、ウィアード・テイルズに持っていく方が良い。」と返されてしまった。結局、ライバーの作品は、ウィアード・テイルズから発表された。ウィアード・テイルズにSFとファンタジーがどの程度の比率で掲載されるかは、作家陣も議論していたらしくライトも頭を悩ませていた。この時代の多くのファンタジー作品は、ウィアード・テイルズから発表され続けた。しかしファンタジー作品もトールキンのような首尾整った世界観の作品が登場し始め、これまでの西部劇の銃を剣に置き換えたマッチョと美女の路線からは、人気が移っていった。 1936年にロバート・E・ハワードが自殺、1937年にラヴクラフトが癌による栄養失調で死去、クラーク・アシュトン・スミスは、報酬が低いとして作家を引退してしまう。1938年には、デラニー社がポピュラー・フィクション・パブリッシングからウィアード・テイルズを買収し、利益向上を計り印刷用紙やサイズ変更を行った。低品質で厚い紙と価格調整のためにページ数を増したウィアード・テイルズは、分厚くなったものの売り上げは、目に見えて悪化し、すぐにページ数が減らされ発刊も隔月になってしまう。ライトも1920年から苦しみ続けたパーキンソン病により1940年6月12日、ニューヨークにおいて51歳で死去した。 ウィアード・テイルズの1940年11月号にシーベリイ・クインによるライトへの訃報が捧げられた。
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