山本→本多→朝岡編集長時代
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「格闘技通信」の記事における「山本→本多→朝岡編集長時代」の解説
1996年にプロレス、格闘技の有料専門チャンネルFIGHTING TV サムライ開局のため、谷川貞治がベースボール・マガジン社を退社すると、ワンポイントで『週刊プロレス』編集長のターザン山本を繋ぎで挟み、本多誠が就任。 1996年、素手の総合格闘技ルールで行われたUniversal Vale Tudo Fighting 2に骨法は二人の代表選手を引き連れて参戦するも惨敗する。格闘技通信[いつの号?]はこれをうけて誌面で大々的に「骨法を贔屓しすぎていました」と謝罪し、骨法を誌面で取り扱う機会が極端に減少した。 1999年5月に格闘技経験者の朝岡秀樹が編集長に就任した。朝岡時代の『格闘技通信』は、谷川貞治が創刊した『SRS-DX』やサブカルチャー路線から格闘技に軸足を移してきた『紙のプロレス』など新たに競合誌が増えた中、挑戦的な誌面作りで格闘技業界に数々の問題提起を行ない波紋を巻き起こした。この朝岡編集長時代には、前任の本多編集長時代の記事に髙田道場のクレームがついて取材拒否を受ける。このため当時PRIDEで人気絶頂だった桜庭和志の誌面登場はおろか試合レポートでの写真掲載もできず、やむなく画像ソフトで油絵タッチにエフェクトされた写真がイラストとして掲載されることもあった。高田道場からは2002年に取材解禁される。
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