取材拒否
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 02:18 UTC 版)
本誌は、杉山編集長時代末期に全日本プロレスとジャパンプロレスから、山本編集長時代に数回にわたって各プロレス団体からそれぞれ取材拒否を受けている。全日本プロレス、ジャパンプロレス、リキ・プロダクション以外は本誌からオフィスの所在地などが削除された。 全日本プロレス・ジャパンプロレス UWFの新日本参戦前後の週プロは、新日本を一方的に持ち上げて全日本への非難を繰り返し、1986年に全日本と、全日本と提携していたジャパンプロレスから取材拒否を受けた。 この際には、記者(特に全日本関係者に顔が割れていない若手記者)がチケットを買って、一般の客として会場に潜入して取材活動を行ったり、読者から観戦記を募集するなどの対応策をとっているが、時にはリングサイドで突撃取材することもあった。当時の週プロでは、全日本のジャイアント馬場会長夫妻や、ジャパンの営業担当を兼務していた永源遙を批判したり、取材の際のチケット入手方法をリポートするなどした『怒っていいとも!』や『全日本プロレスいじめられ日記』というコーナーもあった。しかし、同年に馬場との関係が改善し、山本編集長時代の同誌は手のひら返しで全日本の全面的な賞賛に転じた。 リキ・プロダクション 1987年に発生した前田による長州力への顔面襲撃事件をめぐって、週プロは前田を援護する報道をしたため長州が激怒し、1988年5月にリキ・プロダクションから取材拒否を受けたが同年中に解除している。 SWS 全日本賞賛の流れを引き継いで、週プロは全日本から多くの選手を引き抜いた新興団体SWSへの批判記事を執拗に掲載。SWSから取材拒否を受けると、誌面を通じ「SWSに関する一切の情報の掲載を控える」と通告した。 WAR・新日本プロレス・UWFインターナショナル SWSから分かれた団体のひとつだったWARは同誌への取材拒否の姿勢も引き継いだが新日本との対抗戦を始めるや、同誌が新日本との兼ね合いを理由に低姿勢にまわったため同誌の取材を解禁している。なお山本は後年、「馬場から金銭を受領しそれと引き替えにSWSバッシングを行っていた」としている。しかし、1996年2月に再度WARから取材拒否を受け、3月には新日本、UWFインターナショナルから取材拒否を突き付けられた。 新日本に関しては、新日本から送られてきた取材拒否通告書に、当時の坂口征二社長の印がなかったことから山本は取材拒否は無効と主張したが、新日本は受け入れなかった。同誌は、新日本から取材拒否を通告されてしばらく後「『謎の増刊号』を発行する」と発表している。そして世に出た増刊号は、1996年4月開催の新日本の東京ドーム大会を扱った「観戦記」だった。表紙も含めて試合の写真を一切使わず(写真は遠くから東京ドームを見つめる山本の後姿1枚のみ)、文章だけで構成されたもの。公式に取材活動が出来ないための苦肉の策として、山本を除く記者全員で全日本からの取材拒否を受けた時と同様に一般の客としてチケットを買って会場に潜入し、取材行為を行ったものであった。 WAR・UWFインターナショナルは、1996年6月の山本の編集長退任並びに濱部の編集長就任と同時に取材拒否を解除したほか、新日本も濱部の編集長就任後も取材拒否を続けていたが同年中に解除している。
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