取材対応と身近な人々の死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 23:46 UTC 版)
「老人と海」の記事における「取材対応と身近な人々の死」の解説
ヘミングウェイが『老人と海』の推敲を始めた1951年早々から、アメリカの若手研究家チャールズ・フェントン、カーロス・ベイカー、フィリップ・ヤング、イギリスのジャーナリストのジョン・アトキンズがヘミングウェイの研究書の出版を巡って次々に接触してきた。彼らと私信を交わしたヘミングウェイは、ベイカーとアトキンズが彼の作品を中心に論じようとしていることを知って、二人に協力した。しかし、フェントンの研究対象はヘミングウェイの伝記的な内容であったために協力を拒否した。ヤングの著書に対しては、作品の一部を引用することを認めようとしなかった。この引用については、最終的にはヘミングウェイが折れて許可したものの、フェントンとヤングの著書の出版阻止のために一時は法的手段に出ることも検討していたほどだった。後に、ベイカーの研究は実証性の確かさによって、またヤングの研究は切り口の独自性によって、ヘミングウェイ研究に大きな影響を及ぼすことになった。 また、同年6月にはヘミングウェイの母グレースが死去した。母に対して屈折した思いのあったヘミングウェイは、葬儀の費用を支払ったものの出席はしなかった。10月には2番目の妻ポーリンが急死した。二人の息子であるグレゴリーの問題をめぐって、亡くなる前日の晩にヘミングウェイはポーリンと電話で罵り合い、彼女をひどく責めていた。彼女は副腎髄質に腫瘍があり、ストレスを受けたことでアドレナリンが異常に分泌され、急激な血圧上昇を引き起こしたことが死因だった。翌1952年2月には、『老人と海』の草稿を読んだ版元のチャールズ・スクリブナーが心臓発作で死亡した。ヘミングウェイが『老人と海』の最終原稿をスクリブナー社に渡したのは、その一月後の1952年3月10日である。
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