ゴール王子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/30 08:48 UTC 版)
「ジョサイア・ハーラン」の記事における「ゴール王子」の解説
1838年、ハーランはウズベクの奴隷商人とその司令官であるミュラッド・ベグに対して遠征をしかけた。それは、ドースト・ムハンマドがカーブルの外側へ力を延ばすことを支援したいことと、そもそも奴隷制度に反対であること、近代軍がヒンドゥークシュ山脈を横断できることを証明すること、といった複数の目的があわさったものだった。1,400人の騎兵と1,100人の歩兵、1,500人の補助人員、2,000頭の馬と400頭のラクダ、1頭の象を率い、ハーランは自分自身のことを現代のアレクサンダー大王だと考えた。そして若い息子とドースト・ムハンマドの秘書も連れて行った。 インドのコーカサス山脈の頂上でアメリカ国旗を掲げるなど、困難な道のりの後、ハーランは奴隷商人を恐れている地元のハザーラ人を軍に補強した。最初の大きな戦闘は、タジク人奴隷商人に管理される砦の短い包囲だった。ハーランの大砲は要塞を片付け、このパフォーマンスの結果、地元の人々はハーランを支持するようになった。 地元の統治者のうち、最も強力で野心的なのは、ゴール王子(現在のアフガニスタンの中央から西部分の地域を支配下としていた)ことムハンマド・レフェ・ベグ・ハザラである。ハーラン達は彼らに10日間世話になり、その間に彼らの注目に値する近代的な規律と組織を観察した。レフェたちの文化は、その地域では珍しく奴隷制度は存在せず、男女平等にハザラを賞賛した。ハーランはレフェと協定を結び、ハーランとその相続人は永久にゴール王子となった。その返礼に、ハーランはゴールの力を拡大するため、軍をあげて訓練した。ハーランがカーブルに戻ったとき、第一次アフガン戦争のためイギリス軍が到着していた。ハーランはイギリス軍にとって好ましくない存在であったため、アフガニスタンを去ることにした。
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