ライプツィヒ・ゲッティンゲン時代
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「ヴァルター・ネルンスト」の記事における「ライプツィヒ・ゲッティンゲン時代」の解説
ヴュルツブルク時代に、ネルンストとアレニウスは、ヴィルヘルム・オストヴァルトから、自分の助手になるよう依頼された。これを引き受けた二人は、ヴュルツブルクで博士号を取得し、グラーツで1年間を過ごした後、オストワルドのいるライプツィヒ大学へと移った。 ライプツィヒではガルヴァーニ電池の研究を行った。この研究が世に認められ、ネルンストはライプツィヒで講師となり、さらに1899年にはオストヴァルトの手を離れ、ゲッティンゲン大学の講師となった。 ゲッティンゲン移籍後も、ネルンストの才能を見込んだギーセン大学やミュンヘン大学からの誘いがあった。一方で、ゲッティンゲン大学を担当していたプロイセンの文部次官からの引き留めにもあった。ネルンストは、大学に新たに実験室を作ることを条件に、ゲッティンゲンに物理化学の助教授として残ることにした。そして1895年、ネルンストの要望通り、実験室を含む研究所が作られた。また、ゲッティンゲン時代の1892年、ネルンストはエンマ・ローマイヤーと結婚し、1903年までに5人の子供をもうけた。 さらにゲッティンゲン時代には、電燈に使用できる新たな固体電解質を発見した。ネルンストはこの発見にともなう特許権をAGE(Allgemeine Elektrizitaets Gesellschaft)社に100万マルクで売却した。こうして得た利益の一部を使って、ネルンストは研究室を拡張した。ネルンストの研究室は大所帯となり、そこでは国内外から40人の学生が集まり、研究をおこなうようになった。ネルンスト夫妻は自宅に研究生を招きパーティーを開催したり、ピクニックに出かけたりするなど、研究室の交流につとめた。
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