ヴァルター・ネルンスト
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ヴァルター・ネルンスト Walther Nernst |
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生誕 | Walther Hermann Nernst 1864年6月25日 ![]() ![]() |
死没 | 1941年11月18日 (77歳)![]() ![]() |
国籍 | ![]() |
研究分野 | 物理学 |
研究機関 | ゲッティンゲン大学 ベルリン大学 ライプツィヒ大学 |
出身校 | チューリッヒ大学 ベルリン大学 グラーツ大学 ヴュルツブルク大学 |
博士課程 指導教員 |
フリードリッヒ・コールラウシュ |
他の指導教員 | ルートヴィッヒ・ボルツマン |
博士課程 指導学生 |
Francis Simon リヒャルト・アベッグ アーヴィング・ラングミュア Leonid Andrussow Karl Friedrich Bonhoeffer Frederick Lindemann ウィリアム・デュアン |
他の指導学生 | ギルバート・ルイス Max Bodenstein Robert von Lieben Kurt Mendelssohn Theodor Wulf Emil Bose Hermann Irving Schlesinger Claude Hudson 大幸勇吉 |
主な業績 | 熱力学第三法則 ネルンストランプ ネルンストの式 ネルンスト効果 ネルンストの熱定理 ネルンスト電位 ネルンスト=プランクの式 |
影響を 与えた人物 |
J. R. Partington |
主な受賞歴 | ノーベル化学賞 (1920) フランクリン・メダル (1928) |
プロジェクト:人物伝 |
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ヴァルター・ヘルマン・ネルンスト(Walther Hermann Nernst、1864年6月25日 – 1941年11月18日)は、ドイツの化学者、物理化学者。ネルンストの式や、熱力学第三法則を発見した。
生涯
生い立ち
プロイセンのブリーゼン(現ポーランド・ヴォンブジェジノ)に生まれた。グラウデンツのギムナジウムに入学し、ラテン語で優秀な成績をとった[1]。はじめは詩人を目指していたが、化学教師の影響を受け科学者への道を目指すようになった[2]。卒業後、チューリッヒ、ベルリン、グラーツで学び、さらに1886年にヴュルツブルク大学に移り、そこで学位をとった[3]。
グラーツではルートヴィッヒ・ボルツマンのもとで、アルベルト・フォン・エッティングスハウゼンと共に研究を行い、その成果はヴュルツブルク時代の1887年に論文としてまとめた[4]。これはエッティングスハウゼン-ネルンスト効果(エッティングスハウゼン効果 - Ettingshausen effect、ネルンスト効果 - Nernst effectとも。1886年)として知られている。 またヴュルツブルクでは、イオンの研究で知られるコールラウシュやスヴァンテ・アレニウスらとともに研究を行った。
ライプツィヒ・ゲッティンゲン時代
ヴュルツブルク時代に、ネルンストとアレニウスは、ヴィルヘルム・オストヴァルトから、自分の助手になるよう依頼された。これを引き受けた二人は、ヴュルツブルクで博士号を取得し、グラーツで1年間を過ごした後、オストワルドのいるライプツィヒ大学へと移った。
ライプツィヒではガルヴァーニ電池の研究を行った。この研究が世に認められ、ネルンストはライプツィヒで講師となり、さらに1899年にはオストヴァルトの手を離れ、ゲッティンゲン大学の講師となった[5]。
ゲッティンゲン移籍後も、ネルンストの才能を見込んだギーセン大学やミュンヘン大学からの誘いがあった。一方で、ゲッティンゲン大学を担当していたプロイセンの文部次官からの引き留めにもあった。ネルンストは、大学に新たに実験室を作ることを条件に、ゲッティンゲンに物理化学の助教授として残ることにした[6]。そして1895年、ネルンストの要望通り、実験室を含む研究所が作られた。また、ゲッティンゲン時代の1892年、ネルンストはエンマ・ローマイヤーと結婚し、1903年までに5人の子供をもうけた。
さらにゲッティンゲン時代には、電燈に使用できる新たな固体電解質を発見した。ネルンストはこの発見にともなう特許権をAGE(Allgemeine Elektrizitaets Gesellschaft)社に100万マルクで売却した。こうして得た利益の一部を使って、ネルンストは研究室を拡張した[7]。ネルンストの研究室は大所帯となり、そこでは国内外から40人の学生が集まり、研究をおこなうようになった[8]。ネルンスト夫妻は自宅に研究生を招きパーティーを開催したり、ピクニックに出かけたりするなど、研究室の交流につとめた[8]。
ベルリン時代(1905年〜1914年)

1905年、41歳になったネルンストはゲッティンゲンを離れ、ベルリン大学の教授になった。第二化学教室主任教授だったハンス・ハインリヒ・ランドルトの後任に選ばれたのである。当時のベルリン大学はドイツにおける科学の中心地であった。
赴任して間もなくのころ、物理化学の講義をしているときに、熱化学に関する着想がひらめいた。これはのちに熱力学第三法則とよばれ、熱力学の基本法則の1つとなるものであった。ネルンストは自らが考えた仮定を確かめるため、1914年までこの実験を続けた[9]。
一方でネルンストは、比熱の問題にも関心を持つようになった。低温になると、比熱は古典物理学では説明できないようなふるまいを見せ、当時の科学者の間で話題になっていた。ネルンストの研究室でも比熱の測定実験を行っていたが、1907年、この実験値と一致するような理論を、アルベルト・アインシュタインが発表した。アインシュタインの才能を認めたネルンストは、マックス・プランクと協力してアインシュタインをベルリンへと呼び寄せた[10]。さらに1911年には、エルネスト・ソルベーと共に、著名な科学者を集めて討論を行うソルベー会議を開催した。こうして、ネルンストは名実ともに当時の代表的な科学者の一人となっていった。
ベルリン時代(1914年〜1932年)
1914年、第一次世界大戦が始まると、ネルンストの長男と二男は戦場へかりだされた。そして、ネルンスト自身も志願して軍隊へ入った[11]。ネルンストにとっては50歳にして初めての軍隊経験であった。軍隊では化学薬品や火薬を使った武器の研究開発などを行い、鉄十字一等勲章、功労大章を授けられた[12]。しかし、ネルンストはやがて、この戦争には勝ち目はないと思うようになり、周囲にもそのように明かすようになった[13]。
1917年、ネルンストは軍事研究を終え、大学に復帰した[12]。その年に書かれた著書『新しい熱定理』の序文は、「悲しみに満ちた現実から逃避するのには、理論物理学ほどふさわしい科学はない」、といった書き出しになっている[14]。1918年、戦争は終わり、ネルンストは2人の息子を失った。
戦後、兵器の研究を行ったネルンストは戦争犯罪人として告発される恐れがあったため、一時スウェーデンやスイスへと移住した。しかし科学者が犯罪人のリストから外されると、再びベルリンへと戻った[15]。この頃になると、ネルンストの実績は一段と評価され、さまざまな賞や地位が与えられた。1920年、熱力学第三法則の功績により、ノーベル化学賞を受賞、翌年にはベルリン大学総長に選ばれた[16]。また、駐アメリカ大使にも選ばれたが、これは辞退した[16]。1932年にはロンドン王立協会の外国人会員に選出されている[17]。
1922年、それまでの物理化学研究所の役職を弟子のボーデンスタインにゆずり、国立物理工学研究所所長の地位についた[18]。しかし、所員の官僚的な仕事体質とそりが合わずに、2年で役を降りた。その後はハインリヒ・ルーベンスの後をついで、ベルリン大学の物理学教室主任となり、研究を行った[19]。
晩年
1933年、69歳になったネルンストは引退し、13年前にあらかじめ購入しておいたツィベレの家で暮らすようになった。翌年にはここで、家族や親しい人たちにより70歳の誕生会が開かれた。この会には世界中から祝いのメッセージが届けられ、新聞にも取り上げられた[20]。
ネルンストは家族と一緒に過ごすことを好んでいたが、ヒトラーによるユダヤ人の弾圧が始まると、それは難しくなった。ネルンストの三人の娘のうち二人(ヒルデとアンジェラ)はユダヤ人と結婚していたため、国外への逃亡を余儀なくされた[21]。ネルンスト自身はアーリア人の家系であったが、ナチスについては嫌っていた[16]。長女のヒルデとは1937年に、三女アンジェラとは1939年に会ったのがそれぞれ最後となった。
次女のエディットはドイツ国内のキールに住んでいたため、エディットはその後もたびたび、自身の娘を連れてツィベレを訪れた。ネルンストは娘や孫が来るのを心待ちにしており、別れる時には必ず、またすぐに来てくれるようにと頼んだ[22]。エディットの交流は最晩年まで続いた。
1941年11月15日、ネルンストは昏睡状態におちいり、18日、妻エンマの見守る中で息を引き取った。最期の言葉は、「私はもう天国に入っている。なかなか良い所だが、もっといい所にできたはずだ、とみんなに言ってやったよ[23]。」遺体は本人の望み通りベルリンに運ばれたが、第二次世界大戦後、ベルリンに近づくことが難しくなると、娘たちの手によりゲッティンゲンに移された。現在、遺骨はプランクとマックス・フォン・ラウエの間に埋められている[24]。
業績
熱力学第三法則
ネルンストの一番の業績は熱力学第三法則を確立したことである。この法則は1906年に書かれた論文で初めて発表された[25]。
ある化学反応がどちらの向きに進むかは、化学反応における物質の結びつきやすさ、すなわち化学親和力によって決まると考えられていた。そして、その化学親和力Aは発熱量Qと、
- ウィリアム・H・クロッパー『物理学天才列伝 上』水谷淳訳、講談社ブルーバックス、2009年。 ISBN 978-4062576635。
- アルノルト・ゾンマーフェルト『ゾンマーフェルト理論物理学講座(5) 熱力学および統計力学』大野鑑子訳、講談社、1969年。 ISBN 978-4061220652。
- 『化学の原典 第2期3』日本化学会編、学会出版センター、1984年。 ISBN 978-4762273834。
- K.メンデルスゾーン『ネルンストの世界 ―ドイツ科学の興亡―』藤井かよ、藤井昭彦訳、岩波書店、1976年。
- 山本義隆『熱学思想の史的展開3』ちくま学芸文庫、2009年。 ISBN 978-4480091833。
固有名詞の分類
ドイツの化学者 |
ヘルマン・シュタウディンガー カール・ツィーグラー ヴァルター・ネルンスト ユストゥス・フォン・リービッヒ ヨアヒム・ザウアー |
物理化学者 |
櫻井錠二 スヴァンテ・アレニウス ヴァルター・ネルンスト ライナス・ポーリング 田中郁三 |
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