ライプツィヒとベルリンでの活動
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「フェリックス・メンデルスゾーン」の記事における「ライプツィヒとベルリンでの活動」の解説
1835年、メンデルスゾーンはライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者に任命された。これはミュンヘンのオペラハウスでの音楽監督への誘い、またドイツの音楽雑誌「Allgemeine musikalische Zeitung」の編集部への勧誘を断っての選択だった。メンデルスゾーンはこの管弦楽団、オペラハウス、トーマス教会少年合唱団、また町の他の合唱組織や音楽学校と連携しながら、ライプツィヒの音楽水準の向上に集中した。彼が演奏会で取り上げたのは自作の他、3つのシリーズとなった「歴史的音楽コンサート」や同時代の作曲家の多くの作品などだった。彼の元には若手の作曲家や作曲家志望の者から、曲を取り上げてほしいとの依頼が殺到した。そのような中の1人にワーグナーがおり、彼は自分が送った「交響曲 ハ長調」の草稿をメンデルスゾーンが紛失したとして、嫌悪感を抱いた。メンデルスゾーンはシューベルト作品の復興にも携わっている。シューマンは、自ら発見したシューベルトの「交響曲第8番」の自筆譜をメンデルスゾーンへ送り届け、メンデルスゾーンはすぐさまこれを初演した。日時は1839年3月21日のライプツィヒで、シューベルトの死からは10年以上が経っていた。 ライプツィヒ時代のメンデルスゾーンにとって記念碑的な出来事となったのは、オラトリオ「聖パウロ(英語版)」の初演である。1836年、デュッセルドルフのライン音楽祭で行われたこの演奏会の直前に父がこの世を去っており、メンデルスゾーンは非常に落ち込んでいた。彼はこう記している。「(私は)父に認められるための努力をこれからも決して止めはしません(中略)しかし私はもはやその努力を楽しむことはできないのです」同時代の作曲家の多くは「聖パウロ」を彼の最高傑作であるとみなし、これが彼のヨーロッパでの名声を確固たるものとした。 1840年にプロイセンの王位に付いたフリードリヒ・ヴィルヘルム4世はベルリンを文化の中心都市にしたいと希望しており、音楽学校の新設や教会音楽の刷新などを含めた改革の先頭に、メンデルスゾーンを立てたいという意向が明白であった。しかしメンデルスゾーンはライプツィヒでの強力な地位があったこともあり、この事業に乗り気ではなかった。とはいえ彼は一時ベルリンに滞在し、教会音楽を作曲したり、王の求めに応じソポクレスの「アンティゴネ」(1841年)と「コロノスのオイディプス」(1845年)、シェイクスピアの「夏の夜の夢」(1843年)、ジャン・ラシーヌの「アタリー(英語版)」(1845年)に曲をつけるなどした。しかし学校新設の基金は実際に準備されることはなく、メンデルスゾーンが宮廷との間に交わした財政、地位、演奏会予定などの約束は守られなかった。このため彼はライプツィヒへ戻るために暇を頂戴することをためらわなかった。 1843年、メンデルスゾーンは重要な音楽学校を設立することになる。ライプツィヒ音楽院、現在のフェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ音楽演劇大学ライプツィヒである。彼はモシェレスとシューマンに対し、講師として加わるように説得を行っている。他の名高い音楽家たち、ヴァイオリニストのフェルディナンド・ダヴィッドやヨーゼフ・ヨアヒム、音楽理論家のモーリッツ・ハウプトマンらも教員として参加した。1847年のメンデルスゾーンの死後は、学長を引き継いだモシェレスが彼の音楽院での伝統を実践した。
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