ヨーロッパでの名声
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支倉常長はエスパーニャとの軍事同盟交渉のとき、国王・フェリペ3世に対して、「政宗は勢力あり。また勇武にして、諸人が皆、皇帝となるべしと認める人なり」と発言している。 支倉常長はローマ教皇にも謁見した。この時代の日本人がローマ教皇に謁見した史実は、日本の外交史の中で特筆される実績であり、今でもスペインのコリア・デル・リオには現地に留まった仙台藩士の末裔と推測される人たちが存在している。彼らは「日本」を意味する「ハポン」を姓として名乗っている。
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ヨーロッパでの名声
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「マリアン・アンダーソン」の記事における「ヨーロッパでの名声」の解説
1933年、ロンドンのウィグモア・ホールでヨーロッパデビューを飾ったアンダーソンは熱狂を巻き起こした。1930年代のはじめは演奏旅行でヨーロッパ中を巡ったが、ここではアメリカで経験したような人種差別に出会うことはなかった。1930年の夏にスカンジナビアへ赴いた際、フィンランドのピアニストであるコスティ・ヴェハーネンに出会う。彼は数年にわたって彼女の伴奏者と務めるとともに声楽コーチとなった。また、ヘルシンキではヴェハーネンを通じて彼女の演奏を聴きに来ていたジャン・シベリウスにも会っている。アンダーソンの歌唱に感銘を受けたシベリウスは彼らを自宅へ招待し、妻に伝統的なコーヒーの代わりにシャンパンを持ってこさせた。シベリウスはアンダーソンの歌について、北欧の魂を貫くことができていると感じたという評を彼女自身へと伝えた。たちまち意気投合した2人の友情はさらにプロとしてのパートナーシップへと発展を遂げ、長年にわたりシベリウスはアンダーソンが歌えるように歌曲を編曲、作曲していった。1939年に「孤独」という歌曲をアンダーソンへと献呈している。この作品は元来1906年の付随音楽『ベルシャザールの饗宴』の中の「ユダヤ人の少女の歌」であり、それが管弦楽組曲が編まれた際に「孤独」の部分となったものである。 1934年、インプレサリオのSol Hurokはアンダーソンがそれまでアーサー・ジャドソンと結んでいたものより条件の良い契約を提示した。こうしてアンダーソンは引退まで彼をマネージャーとすることになり、彼の説得に応じてアメリカへ歌いに戻ってくることになる。1935年、ニューヨークのタウン・ホールで2度目となるリサイタルに出演すると、音楽評論家からは非常に好意的な評価を得た。続く4年間は全米、ヨーロッパ中を演奏旅行しながら過ごした。ヨーロッパの複数の会社からオペラの役の打診を受けたものの、彼女には演技の経験がなかったためそうした依頼を全て断っている。しかし数多くのオペラアリアをスタジオ録音しており、それらはベストセラーになった。 アンダーソンと伴奏のヴェハーネンは1930年代半ばをヨーロッパでの演奏旅行を続けながら過ごした。西ヨーロッパの首都の街を巡り、ロシアを訪れてスカンジナビアへ再び戻ると、何千人もの彼女のファンがいる小さな町や村に「マリアン・フィーバー」を巻き起こした。彼女が数々のヨーロッパの作曲家、主要オーケストラの指揮者らに気に入られるのに時間はかからなかった。1935年のザルツブルクへのツアーでは、指揮者のアルトゥーロ・トスカニーニが彼女の声は「100年に1度しか聴くことのできない」ような声であると本人に伝えている。 1930年代終盤、アンダーソンは米国でリサイタルを年間約70公演ほど行っていた。そのとき既に高い知名度を誇っていたが、その名声をもってしてもアメリカ国内の演奏旅行では若い黒人歌手へ向けられる偏見は完全にはなくならなかった。特定のホテルでは部屋の使用を拒否されたり、一部レストランでは食事をさせてもらえなかったのである。この差別が理由となり、人種への寛容を訴えていた物理学者のアルベルト・アインシュタインが多くの場面でアンダーソンのを自らのもとに泊めた。最初は1937年にプリンストン大学での公演前にあるホテルに宿泊拒否を受けた時のことである。アンダーソンが最後に彼に宿を借りたのは、アインシュタインが没する数か月前の1955年であった。
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