ヨーロッパでの大流行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/17 04:59 UTC 版)
最初に詳細に記録された、ヨーロッパでの梅毒の大流行は、1495年イタリア・ナポリを包囲するフランス軍の間で発生した。 コロンブスの航海に携わった乗組員の多くはその後、シャルル8世によるイタリアへの侵攻の際、その軍隊に傭兵として参加していた。そのため梅毒はヨーロッパ中に拡散し、500万人もの死者を出す結果につながったという主張も存在する。 いくつかの知見は、ヨーロッパ人は非性病性の熱帯の細菌を持ち帰り、その細菌が環境の変化とヨーロッパの人々の低い免疫性のために、より致死性の高い形態へ変異した可能性を示唆している。 ジャレド・ダイアモンドは「1495年に梅毒がヨーロッパで初めて明確に記録されたとき、その膿疱はしばしば頭から膝までの全身を覆っており、人々の顔からは血がしたたり落ち、数ヶ月以内死亡した」と記述している。その病気は今日のものよりもかなり致死性が高く、この梅毒の最初の流行の疫学的特徴は、この病気が新しいものか、これまでの病気が新たに変異した形態であることを示している。 梅毒はルネサンスの時代を通じて、ヨーロッパでの主要な死因であった。当時のセビリアの医師ルイ・ディアス・デ・イスラ(ドイツ語版)は論文 Serpentine Malady (1539) の中で、ヨーロッパで100万人以上の人々が感染したと試算している。また、この病気は以前には知られておらず、イスパニョーラ島 (現在のドミニカ共和国とハイチ) に由来するものであるとしている。
※この「ヨーロッパでの大流行」の解説は、「梅毒の歴史」の解説の一部です。
「ヨーロッパでの大流行」を含む「梅毒の歴史」の記事については、「梅毒の歴史」の概要を参照ください。
- ヨーロッパでの大流行のページへのリンク