ヨーロッパでの政治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 14:23 UTC 版)
「ゲオルゲ・タタレスク」の記事における「ヨーロッパでの政治」の解説
タタレスクの外交政策は、2つの異なる目標の両立であった。1つは、ソヴィエト連邦に対抗するためのポーランド・ルーマニア同盟(英語版)の強化。もう1つは、小協商の維持、およびソヴィエト連邦との連携の強化によるナチス・ドイツの勢力拡大の抑制である。 1936年8月28日、タタレスクは外務大臣ニコラエ・ティトゥレスクを罷免し、ヴィクトル・アントネスク(ルーマニア語版)を就任させたが、これには非常に多くのルーマニア外交団から非難が殺到した。その後、数か月にわたって、ティトゥレスクを支持していた人々は事実上全員がリコールされた。この中にはそれ以外にも、ポーランド大使コンスタンティン・ヴィショイアヌ(ルーマニア語版)、国際連盟ルーマニア代表コンスタンティン・アントニアデ(英語版)、ベルギー大使ディミトリエ・I・ギーカ(ルーマニア語版)、オーストリア大使カイウス・ブレディツェアヌ(ルーマニア語版)などがいた。しかし、アントン・ビベスク(ルーマニア語版)のようなタタレスクの政敵は、以前の職に戻された。その後ビベスクは、こういった活動がルーマニアの優越を向上させるものではないとルーマニアの同盟国に示すのを目的に、フランスやイギリスで選挙活動を行った。後にタタレスクは、これまでに築き上げられたルーマニアの外交ルートを放棄させたことで、自身の政党から非難されることとなった。 1937年初頭、タタレスクはポーランド外務大臣ユゼフ・ベックから提案された、チェコスロヴァキアへの支援の撤回とハンガリーとの和解を拒否した(なお、ルーマニアは翌年にチェコスロヴァキアへの支援を撤回し、ミュンヘン会談の直前に、その会談がチェコスロヴァキアの国境を保全するものではないということを暗に示した)。この提案には、小協商とソヴィエト連邦との密接な関係を築くためのチェコスロヴァキアのイニシアティブが付随していたのだが、同年に、チェコスロヴァキアのルーマニア大使ヤン・シェバ(チェコ語版)が、ソヴィエト連邦との軍事同盟の締結(当時、ソヴィエト連邦とルーマニアは、ベッサラビアを巡って争っていた)や、ソヴィエト連邦の西部白ロシア(英語版)及び西部ウクライナへの拡大を切望する内容の書籍を発行するという問題が発生。チェコスロヴァキア外務大臣のカミル・クロフタ(英語版)は、批判を受け止めて書籍に前書きを加え、のちにタタレスクがチェコスロヴァキア首相ミラン・ホッジャを訪ねた際に、シェバはプラハへ呼び出されることとなった。
※この「ヨーロッパでの政治」の解説は、「ゲオルゲ・タタレスク」の解説の一部です。
「ヨーロッパでの政治」を含む「ゲオルゲ・タタレスク」の記事については、「ゲオルゲ・タタレスク」の概要を参照ください。
- ヨーロッパでの政治のページへのリンク