ヨーロッパでの普及
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 14:26 UTC 版)
「コーヒーの歴史」の記事における「ヨーロッパでの普及」の解説
「コーヒー・ハウス」も参照 イギリスでは1650年/51年にオックスフォードでコーヒー・ハウスが営業を始め、1652年には初めてロンドンにコーヒー・ハウスが開業した。最初はイギリスの人間にとってもコーヒーは馴染みのない飲み物であり、コーヒー・ハウスの近隣の住民が、コーヒーの「悪魔の匂い」の対処を訴え出た記録が残っている。 初期の反発にもかかわらずコーヒー・ハウスは順調に数を増やしていき、1666年に起きたロンドン大火で多くのコーヒーハウスが焼失したものの、17世紀末には数100軒から3,000軒にのぼるコーヒーハウスが存在していた。コーヒーハウスの拡大を受けて、1674年に夫がコーヒーハウスに入り浸っていることを非難し、コーヒーが性的不能の原因となることを主張する、「ロンドンの家庭の主婦」による声明文が発表される。そして、コーヒーの有害性を非難する「ロンドンの家庭の主婦」に対して、男性たちのコーヒーへの弁護も公開された。コーヒー・ハウスはロンドンにおける社交・商取引の場として多くの客に利用されたが、18世紀半ばからロンドンのコーヒー・ハウスの数は減少していく。コーヒー・ハウスに代わる社交場として、クラブ、ティーハウスが台頭し、イギリスの家庭には紅茶が定着する。 フランスでは、1669年にオスマン皇帝メフメト4世によって派遣された使節スレイマン・アガ(ソリマン・アガ)がルイ14世にコーヒーを献上したことをきっかけに上流階級にコーヒーが広まった。1671年にマルセイユにフランス最初のコーヒー・ハウスが開業した時、商売敵のワイン商たちから強い反発を受けた。ワイン商の要求を受けた医師がコーヒーが健康に及ぼす悪影響を主張したにもかかわらず、コーヒーはフランスで人気を得ていった。1672年にアルメニア人商人パスカルによってパリ最初のコーヒー・ハウスが開かれ、エスファハーン出身のイラン人グレゴワールは劇場に集まる俳優や批評家を対象としたコーヒー・ハウスを開いて成功を収める。1686年にはカフェ・プロコープが開店し、文人や政治家などの多くの人間が議論を交わした。また、かつてのフランスではコーヒーが心身に悪影響を及ぼすという迷信が広く知られており、「コーヒーの毒性」を消すためにコーヒーに牛乳を入れるカフェ・オ・レが考案された。 オーストリアには、オスマン帝国との戦争にまつわるコーヒーとコーヒー・ハウス伝播の有名な逸話が存在している。先にフランスに使節を派遣したメフメト4世は1683年に第二次ウィーン包囲を行うが、失敗に終わる。第二次ウィーン包囲でヨーロッパ諸国のスパイとして活躍したゲオルク・フランツ・コルシツキー(英語版)が、オスマン軍が放棄した物資の中から発見されたコーヒー豆を手に入れ、戦後ウィーンに初めてコーヒー・ハウスを開いたのがオーストリアにおけるコーヒーの始まりだと言われている。また、コルシツキーをメランジュ(ミルクコーヒー)の考案者とする伝承も存在する。しかし、ヨーロッパ側が獲得した戦利品にコーヒーが含まれていないなどの理由によって、逸話の信憑性は疑問視されている。ウィーン包囲から20年近く前の1665年にウィーン駐在のオスマン大使カラ・マフムト・パシャによって町にコーヒーが紹介され、1666年にカラ・マフムトが帰国した後にコーヒーが販売されるようになったことが記録に残されている。1683年のウィーン包囲より前に、町にはすでに2つのコーヒー・ハウスが存在していたとも考えられている。客が牛乳、生クリームなどの量を調節して自分好みのコーヒーを注文できる点がウィーンのカフェの特徴であり、アインシュペナー(ウィンナ・コーヒー)などの飲み方が知られている。 かつてオスマン帝国の支配下に置かれていたハンガリーでは、16世紀末からコーヒーが知られていた。1541年のブダ陥落の直前、オスマン軍の陣営に会談に赴いたハンガリーの使者が「黒いスープ」としてコーヒーを出された逸話はよく知られており、「黒いスープ」という言葉は不吉な意味合いを持つようになった。 ドイツには1670年頃にコーヒーが伝わり、当初は上流階級に贅沢品として愛飲されていた。1679年/80年頃にハンブルク、1721年にベルリンにコーヒー・ハウスが開業、18世紀後半にはビールに代わる飲み物として一般家庭に普及した。ライプツィヒではコーヒーが大流行し、町で最初のコーヒー・ハウス「カフェー・ボーム」にはザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世も訪れたと言われている。 1760年代から1780年代にかけて、身分秩序の維持とコーヒー輸入の抑制を目的として、庶民を対象としたコーヒー禁止令がドイツ各地で施行された。プロイセン王フリードリヒ2世は国内の経済を脅かすコーヒーの消費の抑制を試み、王立の企業にコーヒーの製造を独占させた。1766年にプロイセンへのコーヒー輸入は統制を受け、1777年にフリードリヒ2世はコーヒーの禁止を布告した。ドイツの庶民の間では、本物のコーヒーの代わりにチコリ、大麦などの他の作物を加工した代用コーヒー (Muckefuck) が飲まれることが多く、「ドイツのコーヒー」といえば長らく代用コーヒーを指す時代が続いた。庶民は高い値が付いた本物のコーヒーを飲むときには、少量のコーヒーを多量の湯で割って飲んだ。また、プロイセンでは供給が絶たれたコーヒーの密輸が横行し、コーヒーへの関心はより高まった。1786年に王立企業のコーヒー産業の独占は廃止され、フリードリヒ2世の死後に規制は解除された。チコリを使った代用コーヒーはナポレオンの大陸封鎖令によってコーヒーの供給が途絶えたフランスでも飲まれ、ナポレオンの失脚後もチコリの代用コーヒーは飲まれている。 17世紀から18世紀初頭にかけての間に、ヴェネツィアにもコーヒー店が誕生する。ヴェネツィア共和国末期には多くのカフェが営業し、さまざまな階層の人間が集まる社交の場となった。ヴェネツィアのカフェは売春や賭博の場にもなり、政府によってしばしば風紀の引き締めを目的とした規制が実施された。2度にわたるカフェ撲滅運動の後も、市民の抵抗によってカフェは生き残る。1720年に開店したカフェ・フローリアンは政府の規制と同業者との競争を潜り抜け、ヨーロッパ最古のカフェとして営業を続けている。 17世紀末には、ロシアでもコーヒーが知られるようになった。イギリス人医師サミュエル・コリンズは、モスクワ大公アレクセイ・ミハイロヴィチにコーヒーを薬として処方した。ピョートル1世は社交界にコーヒーを普及させようと試み、彼以降の皇帝もコーヒーを愛飲していた。しかし、茶がロシアの国民的飲料となったのに対して、コーヒーは貴族、インテリ、芸術家が好む飲み物にとどまっていた。スカンディナヴィア半島には18世紀までコーヒー、茶といったカフェイン飲料は普及していなかったが、1746年にスウェーデンでコーヒーと茶の過度の飲用を批判する声明が出される。コーヒーが有害な飲料であると示すため、18世紀後半にスウェーデン国王グスタフ3世が人体実験(グスタフ3世のコーヒー実験)を実施したという真偽不明の逸話が存在する。スウェーデンでは1820年代初頭までコーヒー禁止令が数度出されたが、スウェーデン政府がコーヒーの飲用を認めて以降、スウェーデンは世界でも上位のコーヒー消費国となる。
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