ヨーロッパでの感染爆発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 02:23 UTC 版)
(黒死病が)始まってから7年後、イングランドに襲来すると最初はドーセットシャーの海岸に合流する町や港で始まり、そこでは他の国々と同様に住民がほぼ完全に消え失せて、つまり生き残った人は殆どいなかった。...それでも、やがてそれはグロスターに、いやオックスフォードとロンドンにまでやって来て、ついにはイングランド全域に蔓延した。そのためいかなる手を尽くしても生き残れたのは10人に1人だった。 ジェフリー・ザ・ベイカー, Chronicon Angliae ペストは、1347年にクリミアの港町カッファからジェノヴァ共和国の貿易商を介して初めてヨーロッパに入ってきたと伝えられている。長引く都市包囲の間、1345-1346年にジョチ・ウルス(現:モンゴル)のジャーニー・ベク軍が感染した死体を城壁に打ち上げて同住民が感染してしまうが 、これは感染済みのネズミが包囲線を越えて移動したため住民に流行感染が広まった可能性が高い。 この病気が定着すると、ジェノヴァの貿易商は黒海を渡ってコンスタンティノープルへと疎開し、1347年夏にそこで初めてヨーロッパに(黒死病が)到来した。 そこでの流行感染は東ローマ皇帝ヨハネス6世カンタクゼノスの13歳の息子を殺し、彼はトゥキディデスによる紀元前5世紀アテネの疫病記述を模して病気の説明を記しながらも、海事都市間の船による黒死病の蔓延に着目した。またニケフォロス・グレゴラスは著作の中でデメトリオス・キドネスに宛てて、死者数の増加、医学の無益さ、市民のパニックを説明した。コンスタンティノープルでの最初の感染爆発は1年続いただけでなく、1400年までに10回ぶり返した。 ジェノヴァ共和国のガレー船12隻によって運ばれ、1347年10月にペストがシチリア島に到来すると、島中で急速に広まった。カッファから来たガレー船は1348年1月にジェノヴァとヴェネツィアに到着した。しかしイタリア北部へ至る発端は、数週間後に起きたピサでの感染爆発だった。1月末頃、イタリアから追放されたガレー船1隻がマルセイユに到着した。 この病気はイタリアからヨーロッパ全土へと北西に蔓延し、フランス、スペインにも襲来した(この流行感染は1348年春にアラゴン連合王国で最初に大混乱を引き起こした)。1348年6月までにポルトガルとイングランドへ、その後1348年から1350年にかけてドイツ、スコットランド、スカンジナビアまで東と北に蔓延した。船がアスコイに上陸した1349年にノルウェーへと入り込み、その後ビョルグヴィン(現:ベルゲン)とアイスランドにまで蔓延した。1351年ついにロシア北西部にも蔓延した。ペストは、近隣との交易があまり進んでいない欧州地域の一部(バスク地方の大部分、ベルギーとオランダの孤立地域、アルプス僻地の村など)ではやや珍しかった。 一部の疫学者によると、不快な天候時期にペスト感染したげっ歯類の群れが減少して強制的にノミが代替宿主となり、地中海域の暑い夏やバルト三国南部の涼しい秋にペストの感染爆発を引き起こしてピークに達することも多々あった。 ペスト感染の様々な原因の中でも、栄養失調は免疫系を弱めるため、ヨーロッパ人口の甚大な喪失の主因となった。
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