真偽不明の逸話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/29 15:17 UTC 版)
3代将軍家光の命で父・宗矩と立ち合って一本を取られ、「竹刀がもう少し長ければ勝てたのに」と口にしたため、今度は長い竹刀を持って再度父と立ち合うことになったが、面を撃たれて昏倒した(『明良洪範』)。 慶安4年(1651年)に家光が開いた兵法上覧会には、宗冬の従兄利厳の子で、尾張徳川家家臣厳包・利方兄弟も招集されており、4月5日から6日の2日間に渡って剣術を披露し、好評を博した。この際、利厳の子孫である尾張柳生家には、「家光の命により厳包と宗冬が木刀をもって立ち合った結果、厳包が宗冬の親指を砕いて勝利を収めた」とする口伝が伝わっており、尾張柳生家第11代当主・柳生厳長が昭和32年(1957年)に著書の中で公に紹介して以来、広く知られている。ただし前述の通り、4月14日には宗冬が家光と諸大名の前で兵法を披露しているため、その8日前に親指が砕かれたとするのは現実的ではないという意見もある。
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