真偽不明の后妃・皇子女
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 00:58 UTC 版)
「後醍醐天皇」の記事における「真偽不明の后妃・皇子女」の解説
著名な歴史的人物のため、後世になるほど后妃・皇子女の「記録」が増えていく傾向にある。以下では、『本朝皇胤紹運録』にも現れない真偽不明のものを挙げる。 典侍:源氏(大納言典侍) - 北畠師重女『増鏡』「秋のみ山」の登場人物。後醍醐の寵愛深かったが、側近の堀川具親が盗み出してしまった。愕然とした後醍醐だが、具親に重罪を与えるのは思い止め、官職をしばらく解いて謹慎させるだけで済ました。事件の後も大納言典侍から後醍醐への想いは戻らなかったので、次は大納言典侍と洞院公泰が一緒になることを許したという。朝廷の事実上の公式資料である『公卿補任』に、具親の解官について、「女の事に依る」と書いてあることが、この物語の一つの史証になる。しかしその一方で、不審な点もある。『尊卑分脈』では、師重の娘に大納言典侍に相当する人物がいない。また、劇中で大納言典侍が詠む歌が事件後わずか2年後の勅撰集『続千載和歌集』に、恋歌五・1601 として載せられており、不自然であることなどが挙げられる。また同じ女房名の別人である可能性もない訳ではないが、和歌に優れた「後醍醐天皇大納言典侍」なる人物は、『増鏡』の物語とは違って南朝まで後醍醐に随行し、その嫡子の後村上天皇にも仕え、南朝で編まれた『新葉和歌集』にも歌が入集している(#確実な后妃・皇子女の一覧)。 掌侍:藤原氏(勾当内侍) - 世尊寺経尹女:『太平記』の花形の登場人物のひとりで、新田義貞に下賜されてその愛妾となる。創作上では阿野廉子と並んで最も著名な後醍醐の側室の一人だが、実在不明。 典侍:藤原氏(新按察典侍) - 持明院保藤女 後宮:民部卿三位(再掲)皇子 - 南朝系図は尊性法親王とする 後宮:藤原(洞院)守子(1303年 - 1357年)皇子?:最恵法親王 - 妙法院 後宮:憙子内親王?(昭慶門院、1270年 - 1324年) - 亀山天皇皇女皇子:無文元選(1323年 - 1390年) - 遠江方広寺開山 皇女 後宮:藤原氏(大納言局) - 洞院公敏女、一説に正親町実明女皇女 - 南朝系図は瑜子内親王とする 後宮:藤原氏(権中納言局) - 洞院公泰女?皇女 - 南朝系図は貞子内親王とする 後宮:藤原氏 - 吉田定房女皇女:(用堂?) 後宮:源康子(飛鳥井局・延政門院播磨) - 源康持女 後宮:源氏(若水局) - 源康持女、康子妹 後宮:源氏 - 堀口貞義(貞満の父)女?皇女 - 吉水院宗信妻、尊寿丸母 生母不詳皇女:用堂(? - 1396年) - 東慶寺5世住持 皇女 - 六条有房室、上記いずれの皇女か不明 皇子?:龍泉令淬(? - 1366年) - 万寿寺住持 皇子:賢光 光遍寺5代住職
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