確実な后妃・皇子女の一覧
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 00:58 UTC 版)
「後醍醐天皇」の記事における「確実な后妃・皇子女の一覧」の解説
この一覧では、実在がほぼ確実な后妃・皇子女のみに絞って掲載する。実在が確実な生涯の后妃の数は8人、皇子は8人、皇女は8人である。皇子女の数が計16人というのは、南朝系図としては比較的古く信頼性の高い『帝系図』(#『帝系図』による一覧)と一致する。 皇太后(初め中宮):藤原(西園寺)禧子(後京極院、? - 1333年) - 西園寺実兼女第四皇女(1314年 - ?) - 早逝? 第五皇女:懽子内親王(宣政門院、1315年 - 1362年) - 光厳天皇後宮 中宮:珣子内親王(新室町院、1311年 - 1337年) - 後伏見天皇皇女第七皇女(1335年 - ?) - 備考:『新葉和歌集』に幸子内親王という歌人がおり、近世系図類では幸子を珣子との皇女に当てるものがある 准三宮:藤原(阿野)廉子(三位局、新待賢門院 1301-1359) - 阿野公廉女、洞院公賢養女第六皇女:祥子内親王(1322年? - ?) - 斎宮 第五皇子:恒良親王(1325年 - ?) - 後醍醐天皇皇太子 第六皇子:成良親王(1326年 - 1344年) - 征夷大将軍・光明天皇皇太子 第七皇子:義良親王(後村上天皇、1328年 - 1368年) 第八皇女:惟子内親王(1336年以後? - ?) - 南朝の女院・歌人である新宣陽門院と同一人物とする説が比較的有力 女御:藤原(二条)栄子(安福殿) - 二条道平女 皇太子妃:藤原(二条)為子(権大納言局、贈従三位為子、? - 1311年?) - 二条為世女第一皇子:尊良親王(1306年? - 1337年) - 中務卿・一品親王・上将軍 第三皇女:瓊子内親王(? – ?) - 『新葉和歌集』で尊良との歌があるほか、勅撰集に多数入選 第四皇子:宗良親王(尊澄法親王、1311年 - 1385年?) - 天台座主・中務卿・征夷大将軍 後宮:藤原氏(遊義門院一条局、? - 1308年?) - 西園寺実俊(橋本実俊)女第二皇子:世良親王(1307年? - 1330年) 第二皇女:欣子内親王(1308年? - ?) 後宮:出自不詳(民部卿三位、? - 1329年?)- 元亀山上皇後宮、のち吉田定房室になったとする説もある第一皇女:姚子内親王?(1307年? - ?) - 母を民部卿三位とするのは『本朝皇胤紹運録』によるものだが、第二皇女の欣子と第三皇女の瓊子の上にもう一人皇女がいたはずであるため、便宜上ここに掲載。 第三皇子:護良親王(尊雲法親王・大塔宮、1308年 - 1335年) - 梶井門跡・天台座主・征夷大将軍 後宮:藤原(二条)藤子(宣旨三位・権大納言三位局・霊照院、? - 1351年) - 二条為道女第八皇子:懐良親王(鎮西宮・筑紫宮、1329年? - 1383年) - 征西大将軍・明日本国王 皇子・皇女の順序については、『増鏡』は、尊良親王を第一皇子、世良親王を第二皇子、二条為子の皇女(瓊子内親王)を第三皇女としている(『増鏡』「秋のみ山」「春の別れ」)。また、腹心である北畠親房が著した『神皇正統記』では、義良親王(後村上天皇)は第七皇子であるとされている。『帝系図』(応安4年(1371年))では、欣子内親王が第二皇女で、祥子内親王が第七皇女。
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