『本朝皇胤紹運録』
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後醍醐天皇が崩御してから約90年後に編纂された『本朝皇胤紹運録』(応永33年(1426年))では、法仁は後醍醐の皇子として言及される。同書によれば仁和寺に所属し、母は懐良親王と同じ(つまり二条藤子)だが、早逝したという。
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『本朝皇胤紹運録』
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「遊義門院一条局」の記事における「『本朝皇胤紹運録』」の解説
『本朝皇胤紹運録』後醍醐天皇の系図では、世良親王の母は「三木実俊卿女」で通称は「遊義門院一条」であるとされる。また聖護院尊珍法親王(恵尊・静尊に改名)も産んだとされているが、尊珍は亀山上皇(後醍醐祖父)と民部卿三位(護良親王の母)の皇子なので、何らかの錯誤がある。また、今林尼衆(遊義門院を追悼するための寺の尼)になった皇女も産んでいるという。 一方、『本朝皇胤紹運録』後宇多天皇の系図では、後醍醐父の後宇多の皇子である良治親王(大覚寺性勝法親王)の母が「一条局。三木左中将実俊卿女」とある。
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