尊珍法親王とは? わかりやすく解説

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尊珍法親王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/13 23:04 UTC 版)

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尊珍法親王
続柄 亀山上皇皇子

身位 法親王准三宮
出生 嘉元4年(1306年
死去 元徳3年(1331年)ごろ?
父親 亀山上皇
母親 民部卿三位
役職 聖護院門跡
園城寺長吏
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尊珍法親王(そんちんほっしんのう)は、鎌倉時代後期の法親王静尊法親王(じょうそんほっしんのう)[注釈 1]あるいは恵尊法親王(えそんほっしんのう)とも。聖護院門跡園城寺長吏准三宮亀山上皇の皇子で、母は民部卿三位征夷大将軍護良親王の異父兄。

後醍醐天皇の義理の息子(血筋上の叔父)に当たるが、『太平記』では実子として登場し、また護良の同父同母弟という設定になっている。

経歴

系譜

尊珍の続柄に関する有力な記録は、『金沢文庫文書』所収の前執権金沢貞顕書状(元徳元年(1329年)12月11日付)で、「民部卿三品」という女性が「梨下門主宮〔当代御子〕」(後醍醐天皇皇子で梶井門跡である人物)と「聖護院准宮〔亀山院御子〕」の母だったと言及されている[2]。一方、『増鏡』「むら時雨」では、「民部卿三位」が護良親王の母であり、それより前に亀山上皇の皇子を産んでいたことが言及される[3]

これらによって、尊珍が亀山上皇と民部卿三位の皇子であること、天台座主尊雲法親王(のちの征夷大将軍護良親王)の異父兄であることがわかる[4]

生涯

嘉元4年(1306年)に誕生[5]。生年については記録が2つあり、園城寺長吏補任時に数え20歳(「寺門伝記補録第十四」)を逆算して1307年とするものと、覚助入室時に数え19歳(『道平公記』)を逆算して1306年とするものがある。しかし、亀山上皇嘉元3年9月15日1305年10月4日)に崩御しているから(『増鏡』「さしぐし」)、亀山皇子であれば、1306年しかないことになる[5]

養君(乳父のことか)には、大覚寺統の重臣である北畠親房が当てられた(『道平公記』元亨4年(1324年)8月22日条)[6]

元亨4年(1324年8月22日夜、聖護院二品覚助法親王に入室(『道平公記』『続史愚抄』)[6]。覚助は亀山の弟なので、尊珍の叔父に当たる[7]

嘉暦元年(1326年)5月、一身阿闍梨の宣を授かり、園城寺長吏に補任(『大日本仏教全書』第127冊「寺門伝記補録第十四」)[8]

ところが、元徳2年(1330年)12月、鎌倉幕府に捕らわれて越前国福井県)に配流となった(『鎌倉年代記』)[7][9]。理由は不明だが、森は、鎌倉幕府との戦い元弘の乱が始まる前年という時期を考えて、後醍醐の討幕計画と何か関係があったのではないか、としている[7]

流刑先の越前国で薨去した(「諸門跡譜」)[7]

『本朝皇胤紹運録』

本朝皇胤紹運録』(応永33年(1426年))のうち、亀山天皇の系図では「寺 尊珍法親王〔准宮。長吏。聖護院。於配所入滅。母准位資子〕」とある[10]

一方、後醍醐天皇の系図では、「寺 静尊法親王〔聖護院。改恵尊又改尊珍。母同世良〕」とあり[11]、聖護院尊珍法親王の記述について錯乱が見られる。#『太平記』も参照。

『太平記』

軍記物語太平記』(1370年ごろ完成)では、流布本巻1「儲王の御事」に、後醍醐天皇の「四宮」(第四皇子)の聖護院門跡として登場(名前は言及されず)[12]。後醍醐と民部卿三位の子で、「三宮」の護良親王とは同父同母弟とされる[12]

元弘の乱前半戦で後醍醐勢力が敗北した後は、流布本巻4「笠置囚人死罪流刑事藤房卿事」では、但馬国兵庫県北部)に流刑になり、但馬守護太田守延に預けられたという[13]

流布本巻8「主上自令修金輪法給ふ事千種殿京合戦」では、「六宮」(第六皇子)として登場[14]。初登場時は「四宮」だったので、矛盾がある。太田守延は後醍醐勢力に好意的な武士だったので、六宮を上将軍として鎌倉幕府に反旗を翻した[14]。そして、京都の六波羅探題攻めに苦戦する千種忠顕の軍勢に合流・加勢した、と描かれる[14]

脚注

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注釈

  1. ^ 森茂暁は静尊と尊珍は別人で混同があったのではないかと推測している[1]。その場合でも、いわゆる「後醍醐の皇子」静尊の事績は尊珍のものとなる。

出典

  1. ^ 森 2007, pp. 32–35.
  2. ^ 森 2007, pp. 233–234.
  3. ^ 森 2007, p. 231.
  4. ^ 森 2007, pp. 231–234.
  5. ^ a b 森 2007, pp. 32–33.
  6. ^ a b 森 2007, pp. 33–34.
  7. ^ a b c d 森 2007, p. 34.
  8. ^ 森 2007, pp. 32–34.
  9. ^ 吉川弘文館『日本史年表』
  10. ^ 本朝皇胤紹運録 1930, p. 448.
  11. ^ 本朝皇胤紹運録 1930, p. 450.
  12. ^ a b 博文館編輯局 1913, pp. 5–6.
  13. ^ 博文館編輯局 1913, pp. 75–80.
  14. ^ a b c 博文館編輯局 1913, pp. 75–80.

参考文献




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