『本朝皇胤紹運録』による一覧とは? わかりやすく解説

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『本朝皇胤紹運録』による一覧

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 00:58 UTC 版)

後醍醐天皇」の記事における「『本朝皇胤紹運録』による一覧」の解説

この節では、『本朝皇胤紹運録』応永33年1426年))による系図掲載する後小松上皇勅命による系図のため、一般論として、天皇家系図では最も信頼性の高いものとされている。この系図では、20人の女性との間に、17人の皇子15人の皇女、計32人の子儲けたことになっている。 しかし、後醍醐とは違う皇統北朝系統で、後醍醐崩御の約90年後に編まれたものであることには注意する必要がある問題点として、 より古く信頼性の高い『帝系図』では、後醍醐の子は計16人とされているが(#『帝系図』による一覧)、数が急に倍に増えている。 延慶元年1308年生まれがほぼ確実な護良親王が、嘉暦3年1328年生まれがほぼ確実な義良親王後村上天皇)の弟になっている後醍醐腹心北畠親房は、『神皇正統記』で、義良親王後村上天皇)が第七皇子であると主張している。しかし、『本朝皇胤紹運録』皇子全て数え上げると(たとえば伝・正中2年1325年誕生法仁法親王)、義良が第七皇子ならない亀山上皇皇子である尊珍法親王静尊法親王)が混ざっている。 公家側の権威ある家系図である洞院公定『尊卑分脈』14世紀末)の方では、存在確認されない女性もいる(下記四条隆資の娘とされる少納言内侍など)。 などがある。 尊良親王〔(略)母贈従三位為子。権大納言為世卿女〕 世良親王太宰帥上野太守。母三木実俊卿女。遊義門院一条恒良親王〔(略)母准宮新待賢門院成良親王〔(略)母同〕 義良親王〔(略)号後村上天皇云々。母同〕 護良親王〔(略)尊雲法親王(略)号大塔宮(略)母民部卿三位大納言源師親女〕 寺 静尊法親王〔(略)改恵尊又改尊珍。母同世良聖護院尊珍法親王静尊法親王)は、後醍醐祖父亀山上皇皇子である(当該項目参照)。 山 尊澄法親王〔(略)還俗改宗良(略)母同尊良〕 僧奠真〔(略)母少納言内侍。隆資卿女〕『尊卑分脈』では、四条隆資の娘として記載されるのは、西園寺実俊の妻で西園寺公永の母となった女性のみで、少納言内侍なる女性相当する娘がいない。 南朝系図は杲尊法親王同一人とする[要出典]。 寺 聖助法親王〔(略)母少将内侍在仲卿女〕後醍醐皇子ではなく叔父恒明親王皇子である可能性がある。正平10年/文和4年1355年11月薨去した恒明皇子法親王がおり、史料によって尊珍・聖珍など名前が一致しないが、『大日本史料編纂者はこれを聖助法親王のことであるとしている。 仁 法仁法親王早世母権大納言三位局。為道朝臣女〕法仁法親王という存在自体は、同時代の『新千載和歌集哀傷・2269に言及される。だが、法仁の事績については、後醍醐崩御から150年上後文亀4年1504年)に書かれた『仁和寺史料寺誌編二』所収「仁和寺御伝」以外にまとまったものがないまた、増鏡』「久米のさら山」では、後醍醐側室二条藤子に、元弘の乱時点皇子一人かいないのような描写がされている。系図類で藤子の子とされるのは法仁と懐良の2人だが、どちらか一人を選ぶなら、同時代征西大将軍として記録多数残る懐良の方とも考えられるまた、伝・正中2年1325年誕生の法仁を後醍醐皇子入れると、それ以降皇子順序一人ずれるため、義良親王後村上天皇)が第八皇子となる。一方、義良は『神皇正統記』では第七皇子とされている。 興 玄円法親王一乗院早世。母従二位守子。後山左大臣女〕後山左大臣洞院実泰『尊卑分脈』では、実泰の娘として女子5人が記載されるが、いずれも記録乏しく天皇の室になった娘がいるとは書かれていない皇子〔母中納言典侍親子宗親女〕『尊卑分脈』の側では、五辻宗親には詳細不明の娘が1人いるのみ。 南朝皇族詳細不明な花園宮」(常陸親王?)という軍事的指導者を、近世以降所伝では「満良親王」としてこの人物に割り当てる場合が多い。 皇子恒性大覚寺越中宮。延慶三十九配越中国当所守護名越配所奉殺之。母亀山院皇女後世の史料では、『大覚寺門跡次第』・『続史愚抄』(江戸時代)などにも登場する皇子〔母護良同〕 皇子阿蘇宮。母同法仁〕 皇子〔母昭訓門院近衛〕知良王[要出典]。『南朝紹運図』は守永親王同一人とする 宣政門院一品内親王懽子。母後京極院〕 前斎宮祥子。母同前坊等〕 姚子内親王今林尼衆。母同護良〕 惟子内親王今林尼衆。鷲尾。母同前坊等〕 皇女今林尼衆。母同世良皇女〔同尼衆。母遊義門院左衛門督局。為忠女〕 皇女〔母同尊良〕 皇女〔母後宇多院権中納言局〕 皇女〔母基時朝臣女〕 皇女関白基嗣公室離別。母民部卿局皇女〔母一品実子山階左大臣女〕山階左大臣洞院実雄『尊卑分脈』には、実雄の末娘として「後宇多院後醍醐官女」という女性記載される。ただし、「室」「妃」とは記されず、また両帝との間に子がいたかどうかも不明皇女〔母大納言局。実雅公女皇女〔母坊門局皇女母御室町院皇女〔母同法仁〕

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