『本朝皇胤紹運録』による一覧
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「後醍醐天皇」の記事における「『本朝皇胤紹運録』による一覧」の解説
この節では、『本朝皇胤紹運録』(応永33年(1426年))による系図を掲載する。後小松上皇の勅命による系図のため、一般論として、天皇家の系図では最も信頼性の高いものとされている。この系図では、20人の女性との間に、17人の皇子と15人の皇女、計32人の子を儲けたことになっている。 しかし、後醍醐とは違う皇統の北朝の系統で、後醍醐崩御の約90年後に編まれたものであることには注意する必要がある。問題点として、 より古く信頼性の高い『帝系図』では、後醍醐の子は計16人とされているが(#『帝系図』による一覧)、数が急に倍に増えている。 延慶元年(1308年)生まれがほぼ確実な護良親王が、嘉暦3年(1328年)生まれがほぼ確実な義良親王(後村上天皇)の弟になっている。 後醍醐の腹心の北畠親房は、『神皇正統記』で、義良親王(後村上天皇)が第七皇子であると主張している。しかし、『本朝皇胤紹運録』の皇子を全てを数え上げると(たとえば伝・正中2年(1325年)誕生の法仁法親王)、義良が第七皇子にならない。 亀山上皇の皇子である尊珍法親王(静尊法親王)が混ざっている。 公家側の権威ある家系図である洞院公定編『尊卑分脈』(14世紀末)の方では、存在を確認されない女性もいる(下記で四条隆資の娘とされる少納言内侍など)。 などがある。 尊良親王〔(略)母贈従三位為子。権大納言為世卿女〕 世良親王〔太宰帥。上野太守。母三木実俊卿女。遊義門院一条〕 恒良親王〔(略)母准宮新待賢門院〕 成良親王〔(略)母同〕 義良親王〔(略)号後村上天皇云々。母同〕 護良親王〔(略)尊雲法親王(略)号大塔宮(略)母民部卿三位大納言典源師親女〕 寺 静尊法親王〔(略)改恵尊又改尊珍。母同世良〕聖護院尊珍法親王(静尊法親王)は、後醍醐の祖父の亀山上皇の皇子である(当該項目参照)。 山 尊澄法親王〔(略)還俗改宗良(略)母同尊良〕 僧奠真〔(略)母少納言内侍。隆資卿女〕『尊卑分脈』では、四条隆資の娘として記載されるのは、西園寺実俊の妻で西園寺公永の母となった女性のみで、少納言内侍なる女性に相当する娘がいない。 南朝系図は杲尊法親王と同一人とする[要出典]。 寺 聖助法親王〔(略)母少将内侍。菅在仲卿女〕後醍醐の皇子ではなく、叔父の恒明親王の皇子である可能性がある。正平10年/文和4年(1355年)11月に薨去した恒明の皇子の法親王がおり、史料によって尊珍・聖珍など名前が一致しないが、『大日本史料』編纂者はこれを聖助法親王のことであるとしている。 仁 法仁法親王〔早世。母権大納言三位局。為道朝臣女〕法仁法親王という存在自体は、同時代の『新千載和歌集』哀傷・2269に言及される。だが、法仁の事績については、後醍醐の崩御から150年以上後の文亀4年(1504年)に書かれた『仁和寺史料寺誌編二』所収「仁和寺御伝」以外にまとまったものがない。また、『増鏡』「久米のさら山」では、後醍醐の側室の二条藤子に、元弘の乱時点で皇子が一人しかいないかのような描写がされている。系図類で藤子の子とされるのは法仁と懐良の2人だが、どちらか一人を選ぶなら、同時代に征西大将軍として記録が多数残る懐良の方とも考えられる。また、伝・正中2年(1325年)誕生の法仁を後醍醐の皇子に入れると、それ以降の皇子の順序が一人ずれるため、義良親王(後村上天皇)が第八皇子となる。一方、義良は『神皇正統記』では第七皇子とされている。 興 玄円法親王〔一乗院。早世。母従二位守子。後山本左大臣女〕後山本左大臣は洞院実泰。『尊卑分脈』では、実泰の娘として女子5人が記載されるが、いずれも記録に乏しく、天皇の室になった娘がいるとは書かれていない。 皇子〔母中納言典侍親子。宗親女〕『尊卑分脈』の側では、五辻宗親には詳細不明の娘が1人いるのみ。 南朝皇族で詳細の不明な「花園宮」(常陸親王?)という軍事的指導者を、近世以降の所伝では「満良親王」としてこの人物に割り当てる場合が多い。 皇子〔恒性。大覚寺。越中宮。延慶三十九配於越中国。当所守護名越於配所奉殺之。母亀山院皇女〕後世の史料では、『大覚寺門跡次第』・『続史愚抄』(江戸時代)などにも登場する。 皇子〔母護良同〕 皇子〔阿蘇宮。母同法仁〕 皇子〔母昭訓門院近衛〕知良王[要出典]。『南朝紹運図』は守永親王と同一人とする 宣政門院〔一品内親王懽子。母後京極院〕 前斎宮〔祥子。母同前坊等〕 姚子内親王〔今林尼衆。母同護良〕 惟子内親王〔今林尼衆。鷲尾。母同前坊等〕 皇女〔今林尼衆。母同世良〕 皇女〔同尼衆。母遊義門院左衛門督局。為忠女〕 皇女〔母同尊良〕 皇女〔母後宇多院権中納言局〕 皇女〔母基時朝臣女〕 皇女〔関白基嗣公室。離別。母民部卿局〕 皇女〔母一品実子。山階左大臣女〕山階左大臣は洞院実雄。『尊卑分脈』には、実雄の末娘として「後宇多院・後醍醐院官女」という女性が記載される。ただし、「室」「妃」とは記されず、また両帝との間に子がいたかどうかも不明。 皇女〔母大納言局。実雅公女〕 皇女〔母坊門局〕 皇女〔母御室町院〕 皇女〔母同法仁〕
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