『神皇正統記』
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討幕説は、後醍醐天皇の側近の北畠親房が事件の15年後に著した『神皇正統記』(延元4年/暦応2年(1339年))にも現れている。 親房の書きぶりでは、「後宇多上皇崩御」→「後醍醐天皇・皇太子邦良親王間の対立が活発化」→「邦良側が幕府の支持を受ける」→「後醍醐が幕府に激怒」→「元亨4年9月に何らかの運動が露見」(「元亨甲子の九月のすえつかた、やうやう事あらはれにしかども」)→「日野資朝流罪の後に沙汰止み」という順序になる。 しかし、河内祥輔によれば、同時代人でしかも腹心とはいえ親房の記述はそのまま鵜呑みにはできないという。まず、後宇多上皇が6月25日に崩御してから、正中元年事件まで2か月あまりしかない。しかも、後醍醐と邦良の対立はたしかに後宇多崩御直後から始まってはいるものの、本格的になったのはこの事件の「後」であり、時系列を信用することができない。したがって、「元亨甲子の九月のすえつかた、やうやう事あらはれにしかども」の部分は後宇多崩御の直後に繋げるしかないが、そうすると今度は「後醍醐が幕府に敵意を持った」という記述が倒幕運動である(と親房が考える)正中元年事件の後になってしまい、親房の論理は矛盾してしまう。よって、『神皇正統記』によって、正中元年事件を倒幕計画と考えることはできないという。 親房は後醍醐が討幕を目指した理由について「皇位継承問題」説を取っている訳だが、上記に述べたように、これは正中の変討幕説とは時系列に相容れない。逆に言えば、正中の変討幕説は疑わしいので、後に後醍醐が討幕を目指した理由の一つが、親房の言う通り「皇位継承問題」である可能性は高くなってくる、と河内は主張する。 親房がなぜ正中事件討幕説を書いたのか不可解だが、河内は想像ではあるがとしつつも、後醍醐天皇が元弘の乱で討幕に成功した後に、後醍醐自身が実は正中の変も討幕運動だったというような(事実と異なる)発言を親房にしたのではないだろうか、と推測している。
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