満良親王とは? わかりやすく解説

満良親王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/06 10:11 UTC 版)

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満良親王
続柄 伝・後醍醐天皇第十一皇子

全名 満良(みつよし/みつなが)
称号 花園宮
身位 親王
敬称 殿下
出生 不明
死去 不明
父親 後醍醐天皇
母親 五辻親子
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満良親王[1](みつよししんのう・みつながしんのう、生没年不詳)は、南北朝時代南朝皇族後醍醐天皇の第十一皇子で、母は参議五辻宗親の女・中納言典侍親子であるとされる。花園宮(はなぞののみや)と号し、土佐南軍の統率に当たった。名前の読みが2種類あることについては、後醍醐天皇の皇子名の読みを参照。

経歴

吉野朝廷時代古戦場址碑
高知県高知市

南朝再建計画の一環として、延元3年/暦応元年(1338年)9月牧宮懐良親王とともに伊勢大湊から出港して土佐に入る。新田綿打入道・金沢左近将監など四国の南軍を従えて、延元5年/暦応3年(1340年)正月大高坂松王丸の救援のため潮江山に布陣し、細川定禅の要請を受けた北軍と交戦するも、遂に敗北して大高坂城は陥落した。興国3年/康永元年(1342年)頃にはほぼ勢力を失って、西国へと落ち延びたらしい。その後の消息は不詳だが、遠江方広寺開山したとされる臨済宗無文元選や、正平6年/観応2年(1351年周防で盛んに令旨を発給している常陸親王(ひたちのしんのう、以下の節で記述)は、花園宮の後身であるとする説がある。

常陸親王

常陸親王は、正平6年/観応2年(1351年)2月から正平10年/文和4年(1355年)3月にかけて、現在確認されているだけでも37通の令旨(うち30通は正平6年のもの)を発給しており、その宛所は、石見国の内田・伊藤出雲国の諏訪部・中沢、安芸国熊谷三戸田所周防国横山などの国人武士が占める。令旨の内容には軍勢催促と軍忠安堵恩賞に関わるものが多く、恐らく親王は観応の擾乱に便乗して周防に入り、中国地方における南朝方の挽回を画策したのであろう。

この常陸親王については、『毛利家文書』正平6年7月30日付常陸親王御使交名に、後醍醐天皇4皇子の1人として、「はなそのゝミや、とさよりすハうへ御入ある、/いまハひたちのしんハうと申候也」と記載されているので、土佐から逃れた花園宮と同一人であるように思われる。しかし、花園宮と常陸国との関係が今一つ明白でないことから、先の交名を毛利家による誤認と切り捨て、常陸合戦において北朝方と交戦した興良親王護良親王王子)を常陸親王の候補に考える説も有力である。

脚注

  1. ^ 同時代史料には「花園宮」と呼ばれているため、はもちろん親王宣下の有無についても本来不詳であるが、一般に流布している人名辞典や系譜類を参照し、仮に満良親王を記事名として採用した。なお、「満良」の諱は近世の吹上本『帝王系図』が初出とされ、また、親王宣下は『南朝編年記略』に延元3年3月のこととある。

参考文献

関連項目

  • 大内弘世 - 正平10年/文和3年(1355年)頃、周防を制圧して長門にまで進出したが、これは満良親王を奉じた戦いだったとする説がある。
  • 石見宮 - 八幡の戦いで戦死した皇族。諱・系譜ともに不詳だが、石見三隅地方の伝承では、満良親王の王子とされる。




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