比較的確実な経歴
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『増鏡』「むら時雨」によれば、通称を民部卿三位という。『金沢文庫文書』所収の前執権金沢貞顕書状(元徳元年(1329年)12月11日付)では、「民部卿三品」(みんぶきょうのさんぽん)と呼ばれている。出自は諸説あり(#出自)、2017年時点でも、日本史研究者の亀田俊和は判断を留保している。 亀山上皇が嘉元3年9月15日(1305年10月4日)に崩御する以前、亀山の側室となった。亀山崩御の直前に妊娠、翌嘉元4年(1306年)に尊珍法親王という皇子を出産。亀山の皇子を産んだという話は『増鏡』「むら時雨」にある。また、前述の金沢貞顕書状によって、名を尊珍法親王と言い、通称を聖護院准宮と呼ばれていたことがわかる。尊珍の生年は、『道平公記』元亨4年(1324年)8月22日条に数え19歳とあることから逆算できる。 その後、経緯は不明だが、延慶元年(1308年)、亀山の孫である尊治親王(のちの後醍醐天皇)との間に尊雲法親王(のちの護良親王)をもうけた。尊治との子であることは『増鏡』「むら時雨」にあり、生年は『天台座主記』に、嘉暦2年(1327年)に数え20歳で天台座主(比叡山延暦寺の長)となったと記録されていることから逆算できる。 やはり経緯は不明だが、遅くとも元徳元年(1329年)までには、後醍醐天皇の側近である「後の三房」のひとり吉田定房の寵姫となっていたという噂が立てられていた。前述の金沢貞顕書状では、貞顕は、定房室の「三位局」なる人物が逝去したという知らせを受け、尊珍と後醍醐皇子の母である「民部卿三品」という人物が、「吉田と一体」という噂を聞いたことがあるが、それとは別人なのかどうか尋ねている。日本史研究者の森茂暁は、これらの噂が真か偽かについて言及しない。一方、岡野友彦は、民部卿三位が定房の寵姫になっていたという部分は真実であろうとし、逝去の部分は誤報で、定房の別の妻が死んだのだろう、としている。
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