比較的確実な経歴とは? わかりやすく解説

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比較的確実な経歴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/16 01:56 UTC 版)

民部卿三位」の記事における「比較的確実な経歴」の解説

増鏡』「むら時雨によれば通称民部卿三位という。『金沢文庫文書所収の前執権金沢貞顕書状元徳元年1329年12月11日付)では、「民部卿三品」(みんぶきょうさんぽん)と呼ばれている。出自諸説あり(#出自)、2017年時でも、日本史研究者亀田俊和判断留保している。 亀山上皇嘉元3年9月15日1305年10月4日)に崩御する以前亀山側室となった亀山崩御直前妊娠、翌嘉元4年1306年)に尊珍法親王という皇子出産亀山皇子産んだという話は『増鏡』「むら時雨」にある。また、前述金沢貞顕書状によって、名を尊珍法親王と言い通称聖護院准宮と呼ばれていたことがわかる。尊珍の生年は、『道平公記元亨4年1324年8月22日条に数え19歳とあることから逆算できる。 その後経緯不明だが、延慶元年1308年)、亀山の孫である尊治親王(のちの後醍醐天皇)との間に尊雲法親王(のちの護良親王)をもうけた尊治の子であることは『増鏡』「むら時雨」にあり、生年は『天台座主記』に、嘉暦2年1327年)に数え20歳天台座主比叡山延暦寺の長)となった記録されていることから逆算できる。 やはり経緯不明だが、遅くとも元徳元年1329年)までには、後醍醐天皇側近である「後の三房」のひとり吉田定房寵姫となっていたという噂が立てられていた。前述金沢貞顕書状では、貞顕は、定房室の「三位局」なる人物逝去したという知らせを受け、尊珍と後醍醐皇子の母である「民部卿三品」という人物が、「吉田と一体」という噂を聞いたことがあるが、それとは別人なのかどうか尋ねている。日本史研究者森茂暁は、これらの噂が真か偽かについて言及しない一方岡野友彦は、民部卿三位が定房の寵姫になっていたという部分真実であろうとし、逝去部分誤報で、定房の別の妻が死んだのだろう、としている。

※この「比較的確実な経歴」の解説は、「民部卿三位」の解説の一部です。
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