正妃を手厚く扱う
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 00:58 UTC 版)
后妃・皇子女の数は諸説あるが、実在が確実な后妃は8人、皇子は8人、皇女は8人である(#確実な后妃・皇子女の一覧)。 とりわけ、正妃である中宮(のち皇太后)の西園寺禧子が一貫して絶大な寵愛と寵遇を受けた。元徳2年(1330年)11月23日、後醍醐天皇は、腹心の文観に無理を言って、禧子に当時の真言宗最高の神聖儀式である「瑜祇灌頂」を受けさせたため、禧子は聖界においても日本の頂点に立ったが、これほどの地位を与えられた妃は史上先例がない。この前月、後醍醐は自分も瑜祇灌頂を受けており、法服をまとった後醍醐天皇の著名な肖像画は、この時の後醍醐側を描いたものである。禧子の側でも後醍醐に深い愛情を寄せ、そのおしどり夫婦ぶりは『増鏡』などに取り上げられた。和歌が得意な夫妻はたびたび歌を贈り合い、3組が勅撰和歌集・准勅撰和歌集に入集している。 后妃8人というのは同時にいた訳ではなく、この数にまでなったのは、多くの妻が早逝したからという面が大きい。後醍醐自身、数えで52歳、満年齢で50歳という、当時としてもそこまで長い人生ではないが(父・祖父の享年は50代後半)、3人の正妃全員に先立たれている。皇太子時代の最初の正妃である二条為子は応長元年(1311年)もしくはその翌年に死去(享年不明)、天皇としての最初の正妃である禧子は元弘3年(1333年)に崩御(享年30代前半か)、その次に中宮になった珣子内親王は延元2年/建武4年(1337年)に崩御(享年数え27歳)している。 後醍醐は正妻を最も大切にする人物で、正妻に対しては常に、前例のほぼないほどの手厚い寵遇で尽くした。たとえば、後醍醐は即位して後、5年以上前に亡くなった最初の正妃である為子に、従三位を追贈した(『増鏡』「秋のみ山」等)。江戸時代後期の有職故実家である栗原信充によれば、天皇の妃ではなく、皇太子時代の妃が従三位を追贈されるという例はきわめて珍しく、後醍醐の為子への格別な想いのほどが窺えるのではないか、という。また、後醍醐は為子の死後20年以上経った後、建武の新政を開くと、二条派の大歌人だった為子の代表歌に倣う歌を詠んでいる(#白菊)。2人目の正妃である皇太后禧子については別段で述べた。3人目にして最後の正妃である中宮珣子に対しても、立后時に歴史的な秀歌2首を贈った(『新拾遺和歌集』冬・622/『新葉和歌集』冬・501、『新千載和歌集』神祇・982/『新葉和歌集』神祇・594)。さらに、珣子の妊娠・出産時には、歴代最高となる66回の御産祈祷を開催している。 また、側室もないがしろにせず、皇太子時代に早逝したと思われる遊義門院一条局を除けば、実在が確実な側室は全員が女御(中宮の次位の后)もしくは女御に相当する位階の従三位に叙されている(#確実な后妃・皇子女の一覧)。 なお、北朝で書かれた軍記物語『太平記』1巻では、南朝の後村上天皇の生母である阿野廉子が、禧子から帝の寵を奪った稀代の悪女とされているが、このような記述は『太平記』1巻以外には見られず、他の現存資料と一致しない。『太平記』内部でも4巻などでは後醍醐と禧子の仲睦まじさが描かれており、廉子悪女説は物語としても設定が破綻している。史実ではないことが描かれた理由として、『太平記』研究者の兵藤裕己は、一つ目には、編纂者が文学的効果を狙って白居易の漢詩「上陽白髪人」を下敷きに創作したことと、二つ目には、現行の『太平記』の1巻・12巻・13巻には、建武政権批判を意図して、室町幕府からの改竄が加えられていると見られることを指摘している。
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