上陽白髪人とは? わかりやすく解説

上陽白髪人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 09:31 UTC 版)

西園寺禧子」の記事における「上陽白髪人」の解説

南朝後村上天皇対立する北朝書かれ軍記物語『太平記』1370年完成)は、後村上生母後醍醐天皇側室一人であった阿野廉子を「傾城傾国」の稀代悪女として描いている。そして、廉子悪女化の影響として、禧子は廉子に寵を奪われ不遇の妃として描かれた。 流布本巻1立后の事附三位殿御局の事」によれば文保2年1318年8月3日、禧子は齢二八数え16歳)で皇后立てられ弘徽殿入内した。『太平記』作者は、西園寺家鎌倉幕府との繋がり深かったため、後醍醐天皇幕府からの評判高めようと、政治的意図のみで禧子を皇后迎えたのだろうと推測している。ところが、禧子は心情的に後醍醐から嫌われ一度も床を共にすることはなかった(「一生空しく玉顔に近かせ給はず」)と描かれる。しかし、実際には禧子は後醍醐との間に少なくとも懽子内親王という皇女もうけており、「一生空しく玉顔に近かせ給はず」とするのは史実反している。 次に後醍醐寵愛は禧子に仕えていた阿野廉子という妖艶な女官注がれた。廉子皇后准ずる准三后地位与えられ、禧子を差し置いて正規皇后あるかのように見なされた、という。しかし、実際に阿野廉子准三后となったのは、禧子が崩御して1年以上経った建武2年1335年4月である。 流布本巻1中宮御産御祈の事附俊基偽籠居の事」では、後醍醐天皇は禧子の安産祈祷称し、それに偽装して幕府調伏儀式を行う冷酷な人間として描かれる。これについての議論次節。 なお、禧子の「不遇」を表現する一生空しく玉顔に近かせ給はず(中略蕭々たる暗の窓を打つ声」という文章は、唐の大詩人である白居易漢詩「上陽白髪人」(『白氏文集』巻3所収)の文詞使ったのである。 ところが、実は巻3および巻4では、禧子と後醍醐仲睦まじい夫婦として描かれており、『太平記』内部ですら物語人物設定自己矛盾起こしている。 流布本巻3「主上笠置を御没落の事」では、元徳3年1331年10月8日時点で、禧子が幕府囚われ後醍醐愛用琵琶届け和歌贈り合う場面描かれる(→四つの緒)。 流布本巻4「中宮御歎の事」では、元弘2年/正慶元年1332年3月7日後醍醐隠岐国配流決まった聞くと、禧子は夜に紛れて牛車六波羅御所駆けつけた。二人夜もすがら語り明かしたが、朝が来てしまったので、禧子は涙ながらに「このうへに 思ひはあらじ つれなさの 命よされば いつをかぎりぞ」の歌を詠んで去ったという。 このような矛盾生じた理由として、『太平記』研究者兵藤裕己は、1つ目には作者白居易の「上陽白髪人」を使って文学的効果高めようとしたこと、2つ目には巻1全体的に室町幕府からの政治的改変があると推測されることを挙げる詳細後述)。そして、1巻より後の、後醍醐と禧子の夫婦仲円満であるという描写の方が、歴史的事実に近いであろうとしている。

※この「上陽白髪人」の解説は、「西園寺禧子」の解説の一部です。
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