上陽白髪人
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南朝の後村上天皇と対立する北朝で書かれた軍記物語『太平記』(1370年頃完成)は、後村上の生母で後醍醐天皇の側室の一人であった阿野廉子を「傾城傾国」の稀代の悪女として描いている。そして、廉子悪女化の影響として、禧子は廉子に寵を奪われた不遇の妃として描かれた。 流布本巻1「立后の事附三位殿御局の事」によれば、文保2年(1318年)8月3日、禧子は齢二八(数え16歳)で皇后に立てられ、弘徽殿に入内した。『太平記』作者は、西園寺家は鎌倉幕府との繋がりが深かったため、後醍醐天皇は幕府からの評判を高めようと、政治的意図のみで禧子を皇后に迎えたのだろうと推測している。ところが、禧子は心情的には後醍醐から嫌われ、一度も床を共にすることはなかった(「一生空しく玉顔に近かせ給はず」)と描かれる。しかし、実際には禧子は後醍醐との間に少なくとも懽子内親王という皇女をもうけており、「一生空しく玉顔に近かせ給はず」とするのは史実に反している。 次に、後醍醐の寵愛は禧子に仕えていた阿野廉子という妖艶な女官に注がれた。廉子は皇后に准ずる准三后の地位を与えられ、禧子を差し置いて正規の皇后であるかのように見なされた、という。しかし、実際に阿野廉子が准三后となったのは、禧子が崩御して1年以上経った建武2年(1335年)4月である。 流布本巻1「中宮御産御祈の事附俊基偽籠居の事」では、後醍醐天皇は禧子の安産祈祷と称し、それに偽装して幕府調伏の儀式を行う冷酷な人間として描かれる。これについての議論は次節。 なお、禧子の「不遇」を表現する「一生空しく玉顔に近かせ給はず(中略)蕭々たる暗雨の窓を打つ声」という文章は、唐の大詩人である白居易の漢詩「上陽白髪人」(『白氏文集』巻3所収)の文詞を使ったものである。 ところが、実は巻3および巻4では、禧子と後醍醐は仲睦まじい夫婦として描かれており、『太平記』内部ですら物語や人物設定に自己矛盾を起こしている。 流布本巻3「主上笠置を御没落の事」では、元徳3年(1331年)10月8日の時点で、禧子が幕府に囚われた後醍醐に愛用の琵琶を届け、和歌を贈り合う場面が描かれる(→四つの緒)。 流布本巻4「中宮御歎の事」では、元弘2年/正慶元年(1332年)3月7日、後醍醐の隠岐国配流が決まったと聞くと、禧子は夜に紛れて牛車で六波羅の御所に駆けつけた。二人は夜もすがら語り明かしたが、朝が来てしまったので、禧子は涙ながらに「このうへに 思ひはあらじ つれなさの 命よされば いつをかぎりぞ」の歌を詠んで去ったという。 このような矛盾が生じた理由として、『太平記』研究者の兵藤裕己は、1つ目には作者が白居易の「上陽白髪人」を使って文学的効果を高めようとしたこと、2つ目には巻1は全体的に室町幕府からの政治的改変があると推測されることを挙げる(詳細は後述)。そして、1巻より後の、後醍醐と禧子の夫婦仲は円満であるという描写の方が、歴史的事実に近いであろうとしている。
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