性格・教養
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西園寺禧子は、知性・教養・美貌・血統を全て兼ね備えた人であり、しかも既成概念にとらわれない大胆で行動的・情熱的な人物だった。 禧子は、俗語的に言えば、世界が自分を中心に回っていると確信している、お姫様型の性格だったと見られる。夫の後醍醐天皇を昼間から逢瀬に誘うためだけに宮中の桜の枝を折るという禁忌を犯したり(後述)、朝廷儀礼を無視して気ままに食べものを仕入れるなど(当時の信仰では朝廷儀礼を破ると天変地異が起こるとされていた)、たびたび型破りな行動に出ている。そもそも、鎌倉時代の西園寺家嫡流の娘は、外戚政治によって正嫡の天皇・上皇に正妃格として嫁ぐ血統であり(長姉西園寺鏱子(永福門院)は後伏見天皇中宮で、次姉昭訓門院は亀山上皇の寵姫)、天皇とはいえ嫡流ではない後醍醐よりも気位は高かったと考えられる。また、その気位に相応しい美貌について、後醍醐はしばしば月影(月の光)に喩えて礼賛している(『続千載和歌集』秋下・459、『新葉和歌集』雑下・1295)。 後醍醐もまた禧子に振り回されるのを好み、天皇の正妃という地位を考えても並外れた寵愛で禧子に尽くしていた。たとえば、夫妻はよく和歌を贈り合い、贈答歌は3組が勅撰・准勅和歌集に入集している。後醍醐は、帝王の楽器とされる琵琶の名手であるが、禧子の和歌(『新千載和歌集』雑中・1895)を見るに、たびたび禧子のためだけに弾くことがあったようである。また、妃が出産する時に行われる御産祈祷は、莫大な費用がかかるものであるが、後醍醐は皇太子時代から大金を投じて、天皇の中宮や上皇の女院に匹敵する規模で祈祷を行わせている(「御産御祈目録」)。鎌倉時代後期での、1回の御産に対する平均祈祷回数は、後醍醐から禧子へが33.3回、後伏見が24.2回、後深草が23回、亀山が20.3回と他の帝を大きく引き離しており、さらに阿闍梨(師僧)の資格を持つ後醍醐自身も祈祷を実践した(#御産祈祷)。この他、真言宗最高の神聖な儀式である「瑜祇灌頂」を受けさせたり(#瑜祇灌頂)、朝廷の女性にとって事実上最高の地位である皇太后宮に立てたりと、可能な限りのあらゆる最高の位を禧子に与えている。禧子崩御後にも、女院号(「後京極院」)の没日追贈という、先例がほとんどなかった栄誉で追悼した。 その一方で、禧子は歴代皇后の中でも、最高の知性と教養の持ち主の一人だった。当時の正統文芸は和歌であるが、後醍醐との交際から崩御までの20年間に禧子が詠んだ和歌のうち、勅撰和歌集に14首・准勅撰に1首が入集している。1年あたり0.75首の秀歌があったことになる。日本の歴史で賢后としてしばしば挙げられる皇后には、一条朝において、清少納言を従えた藤原定子や、紫式部・和泉式部らを従えた藤原彰子らがいる。しかし、勅撰集への入集という点から見れば、定子は入内から崩御までの10年間で7首つまり1年あたり0.7首、彰子は75年間で28首つまり1年あたり0.37首である。和歌の実力で見る限り、禧子は定子・彰子と遜色のない、あるいはそれ以上の才覚を持つ皇后だったことになる。 同様に、その教養は同時代の高級官僚の女性を上回るものだった。中宮の部下の中でも一二を争う地位の腹心である中宮宣旨には、実務面で有能かつ和歌にも巧みな女性が選ばれるのが通例である。事実、禧子の宣旨にも、二条派宗家出身の勅撰歌人である二条藤子が補任された。しかし、藤子は禧子よりも長命だったにも関わらず、勅撰集への入集は計8首であり、それの2倍近くの秀歌を持つ禧子は、歌道家の女性を越えるほどの学才・歌才を身に付けていたことがわかる。 禧子の和歌や性格は、長姉で京極派の代表的歌人である永福門院鏱子とは対象的である。京極派は歌を心のまま自由に詠む派閥で、穏やかな性格の永福門院は、夫の伏見上皇への素直な愛を詠んだものが多い。永福門院は、たとえば『風雅和歌集』恋二・1130「そのままの 夢のなごりの さめぬまに 又おなじくは あひ見てしがな」(昨日の逢瀬のままの夢の名残が醒めない間に、今日も又同じくあなたに逢いたい)など、特に古歌への参照はなく、素朴に文字通りの意味で伏見への愛情を表現している。 純朴な姉に対し、禧子は積極的で情熱的だった。禧子の夫の後醍醐が奉じる二条派は教養を重んじる派閥で、後醍醐はとりわけ古風な趣を好み、古歌の研究によって歌道の本意を求めた。禧子が大胆なのは、古歌を歌詠みの上で模倣するだけではなく、自分自身が歴史上の主役になって、歌物語や古歌の内容を現実の行動に移すことである。 ある日、後醍醐が宮中の紫宸殿で左近の桜を鑑賞しているところに、禧子は部下を遣わして桜の枝を折らせた(歌は#春の桜花と秋の宮人)。当時、左近の桜を折る行為は、『古今著聞集』巻19の藤原定家が主人公の歌物語に見るように、大罪に当たる禁忌とされていた。禧子の破壊行為に驚いた後醍醐は、禧子を眼前に召し出して歌で理由を聞いた。禧子は返歌して、「手折らせたのは、皇后の私が桜を観たかったから(桜のようなあなたに逢いたかったから)」と答える。桜を手折る古歌は幾つかあるが、たとえば『万葉集』に「桜を手折り持って、あなたと千回逢瀬を重ねたい」というような内容のものがある。そもそも、王朝文化の貴族社会の常識として、逢瀬は男性の側から誘うものであり、「通う男」と「待つ女」の間で交わされるものだった。禧子は桜の枝を折って自分を強制的に後醍醐に呼び出させることで、形式上は後醍醐の側が誘ったことにして、事実上は自分の側から誘い、しかも昼間から逢瀬を遂げることを可能にしたのである。 同様に、元弘の乱では鎌倉幕府に囚われた後醍醐に夫愛用の琵琶を届け、涙ながらに歌を書いた紙片を添えた(#四つの緒)。これも、『古今著聞集』において、琵琶師の藤原孝道と後鳥羽上皇との間に類似の逸話が載る。100年以上前の古い物語を、行動と歌の両方で再現して哀しみを詠んだ禧子に対し、後醍醐も『源氏物語』を引用して返歌しており、二人の深い愛情と教養を見て取ることができる。 また、『太平記』巻4「中宮御歎の事」でも、後醍醐に隠岐国配流の判決が下ると、闇夜に紛れて夫の幽閉先に牛車で駆けつけ、夫と最後の一夜を共に過ごす姿が描かれる(#上陽白髪人)。こちらは、逸話そのものが実話かはどうかは不明だが、少なくとも『太平記』の初稿を著した人物(円観)は、禧子を行動的・情熱的な人物に描こうとしたことが察せられる。 後醍醐天皇が女性の政界進出に肯定的な人物であり、建武政権および南朝の政治運営でしばしば女官からの意見を取り入れたことは、(公家勢力の代表からの批判的な文脈ではあるものの)北畠顕家の『北畠顕家上奏文』(延元3年/暦応元年(1338年))によって知られる。2000年代・2010年代以降の研究では、後醍醐は鎌倉時代末期と建武政権でそれほど大きく統治手法を変えておらず、基本的に鎌倉時代に自身と鎌倉幕府が行ってきた政策の統合発展型であると言われている。仮にもし、政治分野における男女共同参画を推進する姿勢が、建武政権だけではなく鎌倉時代末期から続くものであったとしたら、世に「聖代」と称えられた鎌倉末期の後醍醐の治世には、知性を持つ皇后で、後醍醐最愛の女性である禧子からの貢献があったとも考えられる。
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