性格・教養とは? わかりやすく解説

性格・教養

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 09:31 UTC 版)

西園寺禧子」の記事における「性格・教養」の解説

西園寺禧子は、知性教養美貌血統全て兼ね備えた人であり、しかも既成概念とらわれない大胆行動的情熱的な人物だった。 禧子は、俗語的に言えば世界自分中心に回っていると確信している、お姫様型の性格だったと見られる。夫の後醍醐天皇昼間から逢瀬に誘うためだけに宮中を折るという禁忌犯したり(後述)、朝廷儀礼無視して気まま食べものを仕入れるなど(当時信仰では朝廷儀礼を破ると天変地異が起こるとされていた)、たびたび型破りな行動出ている。そもそも鎌倉時代西園寺家嫡流の娘は、外戚政治によって正嫡天皇上皇正妃格として嫁ぐ血統であり(長姉西園寺鏱子永福門院)は後伏見天皇中宮で、次姉昭訓門院亀山上皇寵姫)、天皇とはいえ嫡流ではない後醍醐よりも気位高かった考えられるまた、その気位相応し美貌について、後醍醐はしばし月影月の光)に喩えて礼賛している(『続千載和歌集』秋下・459、『新葉和歌集』雑下・1295)。 後醍醐もまた禧子に振り回されるのを好み天皇正妃という地位考えて並外れた寵愛で禧子に尽くしていた。たとえば、夫妻はよく和歌贈り合い贈答歌3組勅撰・准勅和歌集入集している。後醍醐は、帝王楽器とされる琵琶名手であるが、禧子の和歌(『新千載和歌集』雑中・1895)を見るに、たびたび禧子のためだけに弾くことがあったようである。また、妃が出産する時に行われる御産祈祷は、莫大な費用がかかるものであるが、後醍醐皇太子時代から大金投じて天皇中宮上皇女院匹敵する規模祈祷を行わせている(「御産御祈目録」)。鎌倉時代後期での、1回御産対す平均祈祷回数は、後醍醐から禧子へが33.3回、後伏見が24.2回、後深草23回、亀山が20.3回と他の帝を大きく引き離しており、さらに阿闍梨師僧)の資格を持つ後醍醐自身祈祷実践した(#御産祈祷)。この他真言宗最高の神聖な儀式である「瑜祇灌頂」を受けさせたり(#瑜祇灌頂)、朝廷女性にとって事実上最高の地位である皇太后宮立てたりと、可能な限りあらゆる最高の位を禧子に与えている。禧子崩御後にも、女院号(「後京極院」)の没日追贈という、先例がほとんどなかった栄誉追悼した。 その一方で、禧子は歴代皇后中でも、最高の知性教養持ち主一人だった。当時正統文芸和歌であるが、後醍醐との交際から崩御までの20年間に禧子が詠んだ和歌のうち、勅撰和歌集に14首・准勅撰に1首が入集している。1年あたり0.75首の秀歌があったことになる。日本の歴史で賢后としてしばしば挙げられる皇后には、一条朝において、清少納言従えた藤原定子や、紫式部和泉式部らを従えた藤原彰子らがいる。しかし、勅撰集への入集という点から見れば定子入内から崩御までの10年間で7首つまり1年あたり0.7首、彰子75年間で28首つまり1年あたり0.37首である。和歌実力で見る限り、禧子は定子彰子遜色のない、あるいはそれ以上才覚を持つ皇后だったことになる。 同様に、その教養同時代高級官僚女性上回るのだった中宮部下中でも一二を争う地位腹心である中宮宣旨には、実務面で有能かつ和歌にも巧み女性選ばれるのが通例である。事実、禧子の宣旨にも、二条派宗家出身勅撰歌人である二条藤子補任された。しかし、藤子は禧子よりも長命だったにも関わらず勅撰集への入集は計8首であり、それの2倍近く秀歌を持つ禧子は、歌道家の女性越えるほどの学才歌才身に付けていたことがわかる。 禧子の和歌性格は、長姉京極派代表的歌人である永福門院鏱子とは対象的である。京極派は歌を心のまま自由に詠む派閥で、穏やかな性格永福門院は、夫の伏見上皇への素直な愛を詠んだものが多い。永福門院は、たとえば『風雅和歌集』恋二・1130「そのままの 夢のなごりの さめぬまに 又おなじくは あひ見てしがな」(昨日逢瀬のままの夢の名残醒めない間に、今日も又同じくあなたに逢いたい)など、特に古歌への参照はなく、素朴に文字通りの意味伏見への愛情表現している。 純朴な姉に対し、禧子は積極的で情熱的だった。禧子の夫の後醍醐奉じる二条派教養重んじる派閥で、後醍醐とりわけ古風な趣を好み古歌研究によって歌道本意求めた。禧子が大胆なのは、古歌歌詠みの上模倣するだけではなく自分自身歴史上主役になって歌物語古歌内容現実行動に移すことである。 ある日後醍醐宮中紫宸殿左近の桜鑑賞しているところに、禧子は部下遣わしてを折らせた(歌は#春の桜花と秋の宮人)。当時左近の桜を折る行為は、『古今著聞集』巻19藤原定家主人公歌物語に見るように、大罪に当たる禁忌とされていた。禧子の破壊行為驚いた後醍醐は、禧子を眼前召し出して歌で理由聞いた。禧子は返歌して、「手折らせたのは、皇后の私がを観たかったから(のようなあなたに逢いたかったから)」と答える。手折る古歌幾つかあるが、たとえば『万葉集』に「を手折り持ってあなたと千回逢瀬重ねたい」というような内容のものがある。そもそも王朝文化貴族社会常識として、逢瀬男性側から誘うものであり、「通う男」と「待つ女」の間で交わされるのだった。禧子は折って自分強制的に後醍醐呼び出させることで、形式上後醍醐の側が誘ったことにして、事実上自分側から誘い、しかも昼間から逢瀬遂げることを可能にしたのである同様に元弘の乱では鎌倉幕府囚われ後醍醐に夫愛用琵琶届け涙ながらに歌を書いた紙片添えた(#四つの緒)。これも、『古今著聞集』において、琵琶師の藤原孝道後鳥羽上皇との間に類似の逸話載る100年以上前の古い物語を、行動と歌の両方再現して哀しみ詠んだ禧子に対し後醍醐『源氏物語』引用して返歌しており、二人の深い愛情教養見て取ることができる。 また、『太平記』巻4「中宮御歎の事」でも、後醍醐隠岐国配流判決が下ると、闇夜紛れて夫の幽閉先に牛車駆けつけ、夫と最後一夜を共に過ごす姿が描かれる(#上陽白髪人)。こちらは、逸話そのもの実話かはどうかは不明だが、少なくとも『太平記』初稿著した人物円観)は、禧子を行動的情熱的な人物描こうとしたことがせられる後醍醐天皇女性政界進出肯定的な人物であり、建武政権および南朝政治運営でしばしば女官からの意見取り入れたことは、(公家勢力の代表からの批判的な文脈ではあるものの)北畠顕家の『北畠顕家上奏文』(延元3年/暦応元年1338年))によって知られる2000年代・2010年代以降研究では、後醍醐鎌倉時代末期建武政権それほど大きく統治手法変えておらず、基本的に鎌倉時代自身鎌倉幕府が行ってきた政策統合発展型であると言われている。仮にもし、政治分野における男女共同参画推進する姿勢が、建武政権だけではなく鎌倉時代末期から続くものであったとしたら、世に聖代」と称えられ鎌倉末期後醍醐治世には、知性を持つ皇后で、後醍醐最愛女性である禧子からの貢献があったとも考えられる

※この「性格・教養」の解説は、「西園寺禧子」の解説の一部です。
「性格・教養」を含む「西園寺禧子」の記事については、「西園寺禧子」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「性格・教養」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「性格・教養」の関連用語

性格・教養のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



性格・教養のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの西園寺禧子 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS