真偽が定かではない逸話
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家光との逸話 家光が宗矩の不意をついて一撃を加えようとした時、これに気づき、「上様の御稽古である。皆、見るでない」と大喝し、家光の悪戯を防いだという[要出典]。 家光が宗矩が平伏しているところに「但馬、参る」と一撃を加えようとした時、敷物を引っ張って防いだという。 家光から大和高取藩5万石への加増転封を問われた際、これを断り、友人の植村家政を推挙した。その際、代わりとして「山姥の槍」を所望した。 家光に「檻に入って中の虎を撫でよ」と命じられた際、扇子のみを携えて檻に入り、気迫で虎の動きを封じて撫で、無事に檻を出たという(『東海和尚紀年禄』) 家光が辻斬りをしていると聞き、変装して先回りし、斬りかかってきた家光の剣を無刀取りで止め、これを諌めたという[要出典]。 沢庵との逸話 沢庵和尚の流罪について、宝蔵院流の名人と呼ばれた中村市右衛門尚政と試合して勝てば赦免する条件で仕合し、これに勝ったので、和尚の赦免が成ったという話がある(水上勉『沢庵』) 喫煙を沢庵に咎められた際、「では煙を遠ざければよろしかろう」と言い、部屋の外まで出る特製の長いキセルを作って煙草を吸い、「これで煙を遠ざけ申した」と答えたという。 愛宕山の石段を馬で登ろうとして失敗したが、沢庵に啓示を受け、以来、石段であっても平地の如くに馬を操れるようになったという(『沢庵珍話集』) 一族との逸話 嫡子・三厳(十兵衛)が隻眼になったのは、宗矩が月影の太刀伝授中に誤って傷つけたためとも(『正伝新陰流』)、鍛錬の為、飛ばした礫が誤って目に当たったためとも(『柳荒美談』)いわれている。ただし三厳のものと伝わる肖像画のは両目が描かれており、自著を含む三厳生前の記録にも隻眼であったことを示すものはない。 『柳生藩旧記』に、次男・友矩が家光の寵愛を受けて自分を超えて出世するのが気に入らなかったという記述がある。また家光から友矩を大名に取り立てるという話が出た際にはこれを固辞し、ほどなく友矩が職を辞して柳生庄に戻り、病死した際、その遺品から「3万石(または4万石)を与える」という家光から友矩へのお墨付きを発見し、ひそかに家光に返上したという。 三男・宗冬と仕合した際、「太刀が長ければ勝てるのに」などと言った不覚悟を咎め、戒めのため、気絶するほどの一撃を与えたことがあるという。 柳生庄に戻った際、洗濯をしている娘に「その桶の中の波はいくつある」と戯れに尋ねたところ、「ではその馬の蹄の跡はいくつありますか?」と即答したため、これを気に入り、側室として迎えたという。この娘が後に列堂義仙の母となったお藤とされる。なお、このことを歌った俗謡に「仕事せえでも器量さえよけりゃ、おふじ但馬の嫁になる」というものがある(柳生観光協会『柳生の里』)。 武芸者としての逸話 宗矩が江戸城で敷居を枕にして寝ていた際、若い武士達がこれを驚かそうと障子を閉めたが、宗矩があらかじめ敷居の溝に扇を置いていたので、障子は閉まらなかったという。 能の名人観世大夫の隙を見抜き、これに感づいた名人に感嘆の声を上げさせた。これを聞いた家光は「名人は名人を知るとはこのことか」と讃えた(『甲子夜話』)。 乗馬の達人諏訪部文九郎と馬上試合を行い、先に馬を叩くことで相手の動きを止めて勝利した。家光はこれを「まさに名人の所作である」と讃えた。 『葉隠』内の逸話に、常住死身の境地に達した者を一目で見抜き、即日印可を授けたというものがある(『葉隠』)。 年老いた後にも、背後の小姓の殺気を察知するなど、老いてもなお衰えなかったという。 飼っていた猿が見よう見まねで剣を使えるようになり、ある時、これを牢人と立ち合わせたという話がある。 ある日、宮本武蔵に仕合を挑まれた際、「そなたの剣の境地は?」と問うたところ、「電光石火の如く」と武蔵の返事に「まだまだ修行不足」と挑戦を退けた。そこで逆に武蔵に問い返された時、自分の境地を「春風の如く」と返したという(『鵜之真似』)。 塚原卜伝に天下一を巡って仕合を挑まれた際、「そなたは確かに強いが、今、わしを倒しても、家臣たちがそなたを逃がさぬであろう。それに気づかず挑むところが、そなたの未熟である」と諭したという話がある。ただし、卜伝は宗矩の生年である元亀2年(1571年)に死去しているため、この話は明らかな創作である(『撃剣叢談』) 大阪の陣で振るった刀は「大天狗正家」(最上大業物十四工の一人、三原正家の作とされる。父・宗厳から受け継いだもので、宗厳はこの刀で天狗と立ち合い、後に一刀石と呼ばれる巨岩を切ったともいう)という説がある。ただし、宗矩の佩刀については柳生家の記録にも明確な記載はなく、三原正家の公式サイトでも具体的な史料は示されていないことから、おそらく後世の創作と思われる。 その他の逸話 父・宗厳が筒井氏に仕えていた縁で、石田三成の腹心である島清興(左近)とも交流があったという。そのため、関ヶ原の前には家康に命ぜられ、偵察も兼ねて挨拶に出向いたという。(『常山紀談』) 関ヶ原の後、石田三成の庶子を1年匿ったという(白川亨『石田三成の子孫』) 寛永御前試合にて審判を務めたという(『陸軍歴史』)
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真偽が定かではない逸話
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柳生庄にて道場を開き、全国で1万3500人にも及ぶ門弟を育てたという(柳生村・村史『柳生の里』)。 荒木又右衛門の師匠として扱われることがある(『武術流祖録』)。 ある大名のところに出入りしている浪人と試合をした際、一見相討ちに見えたものの、十兵衛は己の勝ちであり、これがわからないようでは仕方ない、と言った。これに怒った浪人の望みにより、真剣での試合をしたところ、浪人は斬られて倒れ、十兵衛は着物が斬られたのみで傷一つなかった。これを以て「剣術とはこの通り一寸の間にあるものである」と述べたという(『撃剣叢談』) 十兵衛は刀の鍔に柔らかい赤銅を用いていたので、これでは危険であり兵法者として心得不足ではないかと咎められたところ、自分は鍔に頼った剣など使ったことはない、と答えた(『異説まちまち』) ある時、無頼漢に斬りかかられた際、その男の手の中へ入って左右の髭を捕まえ、顔に唾を吐いたという(『異説まちまち』)。 沢庵に、人数を倍々にしながら、この人数を倒せるかと問われて次々と答え、最終的に300人に達したところで「斬り死にするまで戦うのみ」と返したところ、そのような剣は匹夫の剣に過ぎないと喝破され、これをきっかけに沢庵に弟子入りしたという(『柳荒美談』)。また、別の話では、一時、狂気に陥ったことがあり、これを沢庵に治療されたことで、帰依したというものもある。 再出仕する際、柳生庄に杉を一本植えたといい、この時の杉だとされるものが「十兵衛杉」と呼ばれ、奈良県柳生町に現存している。 ある大名に頼まれ、数十人の家臣を相手にして勝った後、別に出てきた剣士(鳥井伝右衛門)の腕前を一目で見抜いたという(『日本武術神妙記』)。 腕前においては、「父(宗矩)にも劣らぬ名人」と称された(『撃剣叢談』)。 「新陰流(柳生新陰流)」とは別に「柳生流」の開祖として扱われることもある(武術流祖録)。 自身の領地である南大河原村で川漁していた際、村の者が網を踏んだために口論となり、十兵衛の屋敷へ村民が押し掛ける騒ぎとなった(『積翠雑話』) 作家・武術研究家の綿谷雪は著書で、十兵衛が急死した地が、早世した異母弟友矩の旧領地である事から、友矩の死因は三厳による暗殺であり、その家臣の報讐を受けて三厳は死んだという説を唱えた。 ある大名のところに、三厳の弟子を自称する浪人が仕官を求めた際、「ちょうど同じく十兵衛殿の門弟を名乗る男が他にも仕官を求めているので、仕合して勝った方を召し抱える」と告げられたため、夜になって逃げ出したところ、そのもう一人の浪人も「十兵衛の弟子と仕合などかなわぬ」と言って逃げ出していたので、両者は鉢合わせたという話がある。 手裏剣術の名人・毛利玄達を相手にした際、37本の手裏剣を全て扇で払い落としたという。 隻眼になった際、とっさに無事な方の目を覆って、構えを崩さなかったという逸話がある。 家光の勘気を蒙った理由として、稽古の際、将軍相手にも遠慮せず打ち据えたためだというものがある。 差料のうち大刀は三池典太光世と言われている。
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