真偽が定かではない逸話とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 真偽が定かではない逸話の意味・解説 

真偽が定かではない逸話

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 01:31 UTC 版)

柳生宗矩」の記事における「真偽が定かではない逸話」の解説

家光との逸話 家光が宗矩の不意をついて一撃加えようとした時、これに気づき、「上様御稽古である。皆、見るでない」と大喝し家光悪戯防いだという[要出典]。 家光が宗矩が平伏しているところに但馬、参る」と一撃加えようとした時、敷物引っ張って防いだという。 家光から大和高取藩5万石への加増転封問われた際、これを断り友人植村家政推挙したその際代わりとして「山姥」を所望した。 家光に「入って中の虎を撫でよ」と命じられた際、扇子のみを携えて入り気迫で虎の動き封じて撫で無事に出たという(『東海和尚紀年禄』) 家光辻斬りをしていると聞き変装して先回りし、斬りかかってきた家光の剣を無刀取り止め、これを諌めたという[要出典]。 沢庵との逸話 沢庵和尚流罪について、宝蔵院流名人呼ばれた中村市右衛門尚政と試合し勝てば赦免する条件仕合し、これに勝ったので、和尚赦免成ったという話がある(水上勉沢庵』) 喫煙沢庵咎められた際、「では煙を遠ざければよろしかろうと言い部屋の外まで出る特製長いキセル作って煙草吸い、「これで煙を遠ざけ申した」と答えたという。 愛宕山石段を馬で登ろうとして失敗したが、沢庵啓示を受け、以来石段であっても平地如くに馬を操れようになったという(『沢庵珍話集』) 一族との逸話 嫡子・三厳(十兵衛)が隻眼になったのは、宗矩が月影太刀伝授中に誤って傷つけたためとも(『正伝新陰流』)、鍛錬の為、飛ばした礫が誤って目に当たったためとも(『美談』)いわれている。ただし三厳のものと伝わる肖像画のは両目描かれており、自著を含む三厳生前記録にも隻眼であったことを示すものはない。 『柳生藩旧記』に、次男・友矩が家光寵愛受けて自分超えて出世するのが気に入らなかったという記述がある。また家光から友矩を大名取り立てるという話が出た際にはこれを固辞しほどなく友矩が職を辞して柳生庄に戻り病死した際、その遺品から「3万石(または4万石)を与える」という家光から友矩へのお墨付き発見しひそかに家光返上したという。 三男・宗冬と仕合した際、「太刀長ければ勝てるのに」などと言った不覚悟咎め戒めのため、気絶するほどの一撃与えたことがあるという。 柳生庄に戻った際、洗濯をしている娘に「そのの中の波はいくつある」と戯れ尋ねたところ、「ではその馬の蹄の跡はいくつありますか?」と即答したため、これを気に入り側室として迎えたという。この娘が後に列堂義仙の母となったお藤とされる。なお、このことを歌った俗謡に「仕事せえでも器量さえよけりゃ、おふじ但馬の嫁になる」というものがある(柳生観光協会柳生の里』)。 武芸者としての逸話 宗矩が江戸城敷居にして寝ていた際、若い武士達がこれを驚かそうと障子閉めたが、宗矩があらかじめ敷居の溝に扇を置いていたので、障子は閉まらなかったという。 能の名人観世大夫の隙を見抜き、これに感づいた名人感嘆の声上げさせた。これを聞いた家光は「名人名人を知るとはこのことか」と讃えた(『甲子夜話』)。 乗馬達人諏訪部九郎馬上試合行い先に馬を叩くことで相手動き止めて勝利した家光はこれを「まさに名人所作である」と讃えた。 『葉隠内の逸話に、常住死身の境地達した者を一目見抜き即日印可授けたというものがある(『葉隠』)。 年老いた後にも、背後小姓殺気察知するなど、老いてもなお衰えなかったという。 飼っていた見よう見まねで剣を使えるようになり、ある時、これを牢人立ち合わせたという話がある。 ある日宮本武蔵仕合挑まれた際、「そなたの剣の境地は?」と問うたところ、「電光石火の如く」と武蔵返事に「まだまだ修行不足」と挑戦退けた。そこで逆に武蔵問い返された時、自分境地を「春風如く」と返したという(『鵜之真似』)。 塚原卜伝天下一巡って仕合挑まれた際、「そなたは確かに強いが、今、わしを倒しても、家臣たちがそなたを逃がさぬであろう。それに気づかず挑むところが、そなたの未熟である」と諭したという話がある。ただし、卜伝は宗矩の生年である元亀2年1571年)に死去しているため、この話は明らかな創作である(『撃剣叢談』) 大阪の陣振るった刀は「大天狗正家」(最上大業物十四工の一人三原正家の作とされる。父・宗厳から受け継いだもので、宗厳はこの刀で天狗立ち合い、後に一刀石呼ばれる巨岩切ったともいう)という説がある。ただし、宗矩の佩刀については柳生家記録にも明確な記載はなく、三原正家公式サイトでも具体的な史料示されていないことから、おそらく後世の創作思われるその他の逸話 父・宗厳筒井氏仕えていた縁で、石田三成腹心である島清興(左近)とも交流があったという。そのため、関ヶ原前に家康に命ぜられ、偵察兼ねて挨拶出向いたという。(『常山紀談』) 関ヶ原の後、石田三成庶子1年匿ったという(白川亨石田三成の子孫』) 寛永御前試合にて審判務めたという(『陸軍歴史』)

※この「真偽が定かではない逸話」の解説は、「柳生宗矩」の解説の一部です。
「真偽が定かではない逸話」を含む「柳生宗矩」の記事については、「柳生宗矩」の概要を参照ください。


真偽が定かではない逸話

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 16:56 UTC 版)

柳生三厳」の記事における「真偽が定かではない逸話」の解説

柳生庄にて道場開き全国1万3500人にも及ぶ門弟育てたという(柳生村村史柳生の里』)。 荒木又右衛門師匠として扱われることがある(『武術流祖録』)。 ある大名ところに出入りしている浪人試合をした際、一見相討ち見えたものの、十兵衛は己の勝ちであり、これがわからないようでは仕方ないと言った。これに怒った浪人望みにより、真剣での試合をしたところ、浪人は斬られて倒れ十兵衛着物が斬られたのみで傷一つなかった。これを以て剣術とはこの通り一寸の間にあるものである」と述べたという(『撃剣叢談』) 十兵衛刀の鍔柔らかい赤銅用いていたので、これでは危険であり兵法者として心得不足ではないか咎められたところ、自分は鍔に頼った剣など使ったことはない、と答えた(『異説まちまち』) ある時、無頼漢に斬りかかられた際、その男の手の中へ入って左右の髭を捕まえ、顔に唾を吐いたという(『異説まちまち』)。 沢庵に、人数を倍々にしながらこの人数を倒せるかと問われ次々と答え最終的に300人に達したところで「斬り死にするまで戦うのみ」と返したところ、そのような剣は匹夫の剣に過ぎない喝破され、これをきっかけ沢庵弟子入りしたという(『美談』)。また、別の話では、一時狂気陥ったことがあり、これを沢庵治療されたことで、帰依したというものもある。 再出仕する際、柳生庄に一本植えたといい、この時のとされるものが「十兵衛」と呼ばれ奈良県柳生町現存している。 ある大名頼まれ数十人の家臣相手にして勝った後、別に出てきた剣士(鳥井伝右衛門)の腕前一目見抜いたという(『日本武術神妙記』)。 腕前においては、「父(宗矩)にも劣らぬ名人」と称された(『撃剣叢談』)。 「新陰流(柳生新陰流)」とは別に柳生流」の開祖として扱われることもある(武術流祖録)。 自身領地である南大河原川漁していた際、の者が網を踏んだために口論となり、十兵衛屋敷村民押し掛ける騒ぎとなった(『積翠雑話』) 作家武術研究家綿谷雪著書で、十兵衛急死した地が、早世した異母弟友矩の旧領地である事から、友矩の死因は三厳による暗殺であり、その家臣報讐受けて三厳は死んだという説を唱えた。 ある大名ところに、三厳の弟子自称する浪人仕官求めた際、「ちょうど同じく十兵衛殿の門弟名乗る男が他にも仕官求めているので、仕合して勝った方を召し抱える」と告げられたため、夜になって逃げ出したところ、そのもう一人浪人も「十兵衛弟子仕合などかなわぬと言って逃げ出していたので、両者鉢合わせたという話がある。 手裏剣術名人毛利玄達を相手にした際、37本の手裏剣全て扇で払い落としたという。 隻眼になった際、とっさに無事な方の目を覆って構えを崩さなかったという逸話がある。 家光勘気を蒙った理由として、稽古の際、将軍相手にも遠慮せず打ち据えたためだというものがある。 差料のうち大刀三池典太光世と言われている。

※この「真偽が定かではない逸話」の解説は、「柳生三厳」の解説の一部です。
「真偽が定かではない逸話」を含む「柳生三厳」の記事については、「柳生三厳」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「真偽が定かではない逸話」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「真偽が定かではない逸話」の関連用語

真偽が定かではない逸話のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



真偽が定かではない逸話のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの柳生宗矩 (改訂履歴)、柳生三厳 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS