持明院保藤とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 持明院保藤の意味・解説 

持明院保藤

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/15 16:54 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
 
持明院保藤
時代 鎌倉時代中期 - 南北朝時代
生誕 建長6年(1254年[1]
死没 興国3年/康永元年9月26日1342年10月26日
官位 正二位権中納言
主君 後深草天皇亀山天皇後宇多天皇伏見天皇後伏見天皇後二条天皇花園天皇後醍醐天皇
氏族 松殿家持明院家
父母 父:松殿良嗣、養父:持明院基保
兄弟 保藤、隆弁、松殿基教、松殿通輔、
松殿忠兼、鷹司伊氏、松殿頼房、
松殿冬房、禅弁、亀山院女房新大納言
保有[2]洞院実夏
テンプレートを表示

持明院 保藤(じみょういん やすふじ)は、鎌倉時代中期から後期にかけての公卿権中納言持明院基保の養子。官位正二位・権中納言。

経歴

正二位・非参議だった松殿良嗣の子として誕生、60歳以上歳の離れた持明院基保の養子となる。

正嘉2年(1258年)に5歳で従五位下右近衛少将、左近衛少将、備前権介等を経て正応5年(1292年)に従三位、公卿に列せられる。正安2年(1300年)に参議、皇統が持明院統後伏見天皇から大覚寺統後二条天皇に転じた翌正安3年(1301年)には辞し遠江権守に転ずるが徳治2年(1307年)に還任する。

花園天皇が即位し、皇統が持明院統に戻った徳治3年(1308年)には権中納言に昇進、翌延慶2年(1309年)には辞したが、正二位となり、父以上に出世したが、正二位・権中納言を極位極官としたまま嘉暦元年(1326年)に出家した。

その後も長寿を保ち、興国3年/康永元年(1342年)に89歳(あるいは92歳)で薨去した。持明院家では傍流であったが、保藤の子孫はその後も子の保有、孫の基孝、保冬が公卿となっている。

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ 生年は建長3年(1251年)説もある。尊卑分脈による。
  2. ^ 従二位・権中納言

外部リンク




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「持明院保藤」の関連用語

持明院保藤のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



持明院保藤のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの持明院保藤 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS