ヨーロッパでの公開と模造品
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/30 22:02 UTC 版)
「キネトスコープ」の記事における「ヨーロッパでの公開と模造品」の解説
1894年、フランク・マグワイアとジョゼフ・ボーカスが経営する大陸通商社(Continental Commerce Company)は、ヨーロッパにおけるキネトスコープとフィルムの販売代理店となり、10月17日にロンドンのオックスフォード・ストリート70番地にキネトスコープ・パーラーを開設した。同月にはパリのポワソニエール大通り20番地に、ヴェルネル兄弟(フランス語版)が運営するキネトスコープ・パーラーが開店した。続いて、12月にコペンハーゲンとアムステルダム、1895年2月にストックホルム、3月にリスボンとベルリンでキネトスコープが上映された。しかし、エジソンはキネトスコープの国際特許を申請していなかったため、ヨーロッパではヴェルネル兄弟を含む数人の発明家により、キネトスコープの模造品が作られた。 ロンドンの光学器械製造業者のロバート・W・ポールは、1894年にギリシャ人興行師のゲオルギ・ゲオルギアデスとゲオルギ・トライェディスの依頼を受けて、廉価なキネトスコープの模造品を製造した。それを知ったエジソン社は上映用作品の提供を拒否し、打撃を受けたゲオルギアデスとトライェディスはポールに新作映画を作るように頼んだ。ポールは写真家のバート・エイカーズ(英語版)と組んで、1895年にポール=エイカーズ・カメラを開発し、エイカーズが『The Derby』『Rough Sea at Dover』などのキネトスコープ用作品を撮影した。これらの作品はイギリスで作られた最初の商業用映画の一つである。 フランスの蓄音機販売業者のシャルル・パテ(フランス語版)は、1895年3月にロンドンでポールが製造したキネトスコープの模造品を手に入れ、ヴァンセンヌの店で興行師向けに販売した。しかし、キネトスコープは1台に1人しか見れないため商売にならないうえに、パテの元にはフィルムが数本しかなく、すぐに観客に飽きられてしまった。キネトスコープを興行に利用しようとパテの店を訪れたアンリ・ジョリ(フランス語版)は、そのことを知るとパテに映画用カメラを作ることを申し出た。パテは必要な資金を調達し、同年8月26日にジョリはキネトスコープと映写機の両方に対応したカメラの特許を申請した。ジョリはこのカメラでキネトスコープ用作品を撮影した。これと並行してパテとジョリは、一度に4人が覗き見ることができる大型キネトスコープのフォトゾーイトロープを組み立て、11月8日に特許を申請したが、成功を収めることはなかった。
※この「ヨーロッパでの公開と模造品」の解説は、「キネトスコープ」の解説の一部です。
「ヨーロッパでの公開と模造品」を含む「キネトスコープ」の記事については、「キネトスコープ」の概要を参照ください。
- ヨーロッパでの公開と模造品のページへのリンク