ヨーロッパでのプント
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/11 15:33 UTC 版)
「ジョヴァンニ・プント」の記事における「ヨーロッパでのプント」の解説
イタリアに着くとまもなく、スティフはジョヴァンニ・プントに改名し(本名をほぼそのままイタリア語翻訳した名前である)、ホーエンツォレルン家のヨーゼフ・フリードリヒ・ヴィルヘルムのオーケストラに勤めるようになる。ここからマインツの宮廷管弦楽団に移るが、数年経ってもコンサートマスターのポストが与えられなかったために去ることになる。この後からは旅をしてソリストとして演奏するようになり、イングランドも含めたヨーロッパ各国を旅してまわった。チャールズ・バーニーは1772年のコブレンツでプントの演奏を聴いており、「ボヘミア出身の名高いフレンチホルン、その趣味と驚くべき演奏は最近ロンドンでも喝采を浴びた」と記している。 とりわけパリで精力的に活動し、1776年から1788年の間に同市で49回演奏した。しかし、ロンドンでは彼がゲシュトップフト奏法を使用することを批判する者もいた。1777年には私設オーケストラのホルン奏者を指導するためにジョージ3世の招きを受けている。 また、プントは当時一般的だったように自らの超絶技巧を誇示するために楽曲を欠いた。作品からは彼が急速なアルペッジョや階段状のパッセージワークに優れた技術を有していたことが分かる[要説明]。 1778年にパリでプントに出会ったモーツァルトは、後にモーツァルトは父のレオポルトに「プントは格調高く演奏した」と伝えている。プントはモーツァルトのオーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴットと管弦楽のための協奏交響曲 K297bでホルンを吹くことになっていたが、この作品は間際になってプログラムから外されることになり、その後散逸した。同年に複数のパリの出版社の協定に加わったとみられ、これ以降の彼の作品はほぼ全てがパリで出版されている。しかし、それらはかつてはブライトコプフ・ウント・ヘルテルのカタログに記載されていた。1778年にはプントのための新しいホルン「cor solo」が製作され、彼は没するまでそれを使用した。 指揮に加えて作曲、演奏もできる常勤のポストを探し、1781年にはヴュルツブルク司教領(英語版)のフランツ・ルートヴィヒ・フォン・エルタールに仕えるようになり、その後パリで後のシャルル10世の年金付きコンサートマスターに就任した。この職での成功は目覚ましく、そのおかげで1787年には休職を願い出てラインラントへ自らの馬車で旅行に赴くことができた。これは当時では相当な富の象徴だった。 1789年にパリへ戻るとThéâtre des Variétés-Amusantesの指揮者に就任し、10年間この職に留まった。1799年に離職しているが、この年に新設されたパリ音楽院の職員としての登用が叶わなかった。ミュンヘンを経由してウィーンに移りベートーヴェンに出会う。ベートーヴェンは2人での演奏のためにホルンソナタを作曲している。初演は2人の手により1800年4月18日にブルク劇場で行われ、翌月にハンガリーのペシュトでやはり両名によって再演が行われた。
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