2度目の王位
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/23 05:23 UTC 版)
「アウグスト2世 (ポーランド王)」の記事における「2度目の王位」の解説
弱体化したポーランド・リトアニア共和国は、間もなくロシア帝国の保護国として扱われるようになった。1709年、アウグスト2世はロシアの援助でポーランド王位に復帰して再び共和国に絶対王政を導入しようとしていたが、タルノグルト連盟を始めとするポーランド貴族階級(シュラフタ)の反対に遭った。ピョートル1世はこの混乱を調停者の役割を演じる好機と捉え、共和国に軍事的威嚇を加えた。1717年、アウグストと貴族階級は無言議会(Sejm Niemy)で、ロシアの国益に合致した内容の調停文書にサインさせられた。 アウグスト2世の復位時、大北方戦争は継続していた。アウグストは、劣勢のスウェーデンから優位を取り戻そうと画策するがいずれも成功しなかった。しかしアウグストは自らの外交戦術を通じてポーランド・リトアニア共和国の王位を維持させる事には成功した。しかしアウグストの時代にはもはやポーランド・リトアニア共和国はヨーロッパにおいて強国の座を取り戻すは出来なかった。共和国はロシアの軍事力によって守られており、その地位もピョートル1世の支持あってのものであった。1712年には、ザクセン公としてドイツへ親征し、デンマークと共にガーデブッシュの戦いを行ったがスウェーデンに敗れた。 そして1720年にストックホルム条約が結ばれ、大北方戦争は終結したものの、アウグストが得たものはポーランド・リトアニア共和国の王位の確定のみであった(実際には1660年に締結されたオリヴァ条約の更新であり、北方同盟によるアウグストの目論見は破綻することとなった)。その共和国領ですらアウグストの支配権は全体におよぶことはなかった。結局のところ、共和国は大北方戦争で戦勝国側に就きながら、敗戦国のスウェーデンと並んで没落を共にしたのであった。治世を通じて、アウグストは複雑な関係であったとはいえ、王位を維持するために多かれ少なかれロシア(およびオーストリア)に依存していた。無言議会の閉会後、国王は領土的な野心を放棄し、共和国の再建・強化に力を注ぐことを決めた。しかし国内外からの圧力に屈し、ほとんど成果は無かった。 アウグストは、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世によるバルト海沿岸南東部への野心や、ピョートル1世の中東欧における覇権を有するためにメクレンブルクに海軍基地を建設することを求めていたことなどに対して憂慮をしていた。1719年にアウグストは、イギリス王ジョージ1世や神聖ローマ皇帝カール6世と共にロシア国境を戦前の状態に押し戻すべく相互援助条約(ウィーン条約)を締結したが、ストックホルム条約の成立や1721年にスウェーデンとロシアがニスタット条約を締結したために相互援助条約は無駄となった。 1733年、ワルシャワで死去。自らの家系をポーランドの世襲王家にすることには失敗したが、息子のザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世が、アウグスト3世として次のポーランド王に選出された。但し、この王位継承はポーランド継承戦争において、ロシア軍の支援のおかげで実現したものだった。
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